ノモンハン事件の真実 1*2*3*4

ノモンハン事件の真実 1

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(ノモンハン事件編) 日本が参加した戦争を分かりやすく説明

YAHOO! 知恵袋 より【転載】
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日本が参加した戦争を分かりやすく説明(ノモンハン事件編)

ライター:kouino20さん(最終更新日時:2012/8/18)投稿日:2012/8/18
日本が参加した戦争を分かりやすく説明(ノモンハン事件編)
注意
※学説は多々ありますので、一般的な説を説明いたします。
(シベリア出兵編)、(満州事変編)を読んでおいていただくと分かりやすいかもしれません( ^^) _旦~~
jp
さて、久しぶりの投稿であります「日本が参加した戦争を分かりやすく説明」シリーズ。今回は日本軍とソ連軍が激突したノモンハン事件を説明いたします。上の写真は戦場で撮られた写真です。もしかしたら、ノモンハン事件って知名度低いかもしれませんが、重要な戦いです。ぜひ読んでいってください\(゜ロ\)
ノモンハン事件は日本軍とソ連軍の戦闘なのですが、名目上は満州国とモンゴルの国境紛争なのです。満州国は日本の傀儡国家、モンゴルはソ連の傀儡国家ということで、実際には日本軍とソ連軍がぶつかったわけですね。

さて、当時の情勢からお話ししておきましょう。1931年の満洲事変で満州国が建国されると、ソ連はこの満州国を脅威に感じていました。

ソ連A<日本の勢力がドンドン大きくなってるなぁ・・・ このままじゃ俺らに危害を加えるかもしれんな。    
ソ連B<あのマカーキー(猿)共もウザいけど、西のナチスもデカくなってるぞ     
ソ連C<良い考えがある、日本への盾を作ろう!!

西にもナチスドイツという脅威を抱えていたソ連は、膨張する日本への防御壁を作ろうと目論見ます。目をつけたのはモンゴル人民共和国でした。かつてはチンギスハンの統治の下、世界中を畏怖させたモンゴルもこの時代は清王朝に征服され支配されていました。しかし、辛亥革命によって清王朝が崩壊すると、1913年にモンゴル人民共和国として独立を宣言します。ソ連はこのモンゴルを日本への防御壁として利用しようとしたわけです。あれですね、日本が朝鮮半島をロシアへの防御壁にしようとしたのと同じです。
ソ連はモンゴルのソビエト化を進めます。当時のモンゴルの指導者はゲンデンという人物で、ソ連の指導者はミスター粛清こと、スターリンです。スターリン怖いですスターリンw

スタ<モンゴルの独立を認めてるのはソ連だけだよ(*^_^*)
ゲン<はい、ありがとうございます。
スタ<モンゴルは共産国家になるよね??(*^_^*)
ゲン<はい、そうさせていただきます。
スタ<モンゴルってさ、僧侶いるじゃん?? それは良くないなぁ。
    宗教って共産主義では認められないのよ。 だからさ・・・僧侶を皆殺しにして(*^_^*)     
ゲン<え・・・いや・・・僧侶って教育役も兼ねてるんで・・・ 皆殺しはちょっと・・・。   
スタ<ふ~ん、いやなの?? へ~そう~(^_^メ)

スターリンはゲンデンに僧侶の粛清を求めますが、ゲンデンは共産主義と言うよりはモンゴル民族の発展を望んでいた人で、スターリンのこの要求を渋ります。するとスターリンはゲンデンをモスクワに呼び寄せると銃殺してしまいます。さすがはスターリン先輩ですw
次のモンゴルの指導者となったのは、農業大臣をやっていたチョイバルサンという人物です。なんかちょっとゴキブリを殺してくれそうな名前の人ですが、 この人が殺すのはモンゴル人民でした。チョイバルサンはスターリンの指示通り、僧侶を粛清していきます。次第に粛清は軍人や民衆にも及ぶようになり、なんと人口約80万人の当時のモンゴルにおいて2万9千人もの人々が粛清されてしまいます。

この粛清の最中、チョイバルサンからスターリンへ「ベリヤ報告書」というものが送られます。この報告書の内容は軍団長であったダンバという人物をクーデターの容疑で逮捕したというものでした。ダンバ軍団長はかつてのゲンデン派の人で、つまりはスターリンの影響が及ばない最後の有力者でした。要するに、ダンバの逮捕でモンゴルは完全にスターリンの支配下に落ちたということです。

さて、話は満州の関東軍に移ります。満州国の首都新京の関東軍参謀部ではある方針が発表されます。それは満州国とモンゴルとの国境争いに関するものでした。内容は以下の通り。
「満ソ国境紛争解決要綱 」
・国境が確定していない地域は現場の指揮官が自主的に国境線を認定してよい
・防衛上必要があれば、一時的にソ連領に侵入してもよい

以上が主な内容です。むちゃくちゃ強硬な方針ですね。この方針を決定したのは辻正信(つじまさのぶ)という人物です。ちょっと詳しい人なら知ってるかもしれませんね。この人物は太平洋戦争でも作戦立案をして、戦後には逃亡後に帰国して国会議員にもなります。 関東軍が出したこの要綱はソ連との紛争を避けたい日本本国政府の方針を完全に無視したものでした。要綱が出されてから2週間後、 1939年5月11日に満州国軍とモンゴル軍が大規模な戦闘を行いノモンハン事件に発展します。
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さて、ノモンハン事件の戦況を説明していきたいと思いますが、実はこのノモンハン事件は近年になって新しく分かってきたことがたくさんあります。というのも、ソ連崩壊後に今まで公開されなかったソ連内部資料が次々と公開されるようになったのです。いままでは日本軍の惨敗という評価がされていましたが、新しく出てきたソ連の資料によるとソ連軍の被害も決して小さくなかったことが分かってきたのです。
さてノモンハン事件は2つの時期に分けられます。まずは第一次ノモンハン事件と呼ばれる時期についての説明をします。第一次は5月ごろの戦闘を指します。この段階での両軍の戦力比は以下の通りです。

日本軍: 21953人  ソ連軍:約30000人
日本の数:ソ連の数の比率
砲=6:10  戦車=1:3  装甲車=1:18

以上のように日本軍はソ連軍に数も劣っていましたし、日本軍は歩兵主体だったのに対し、ソ連軍は戦車・装甲車などの機械化部隊を繰り出してきました。日本軍はソ連軍に対して苦戦し、結果として日本軍は敗退します。しかし、ソ連軍にも多大な被害が出たのでした。
日本軍には戦車や装甲車が少ない代わりに速射砲を対戦車砲として、配備していました。日本軍兵士の練度は高く、次々とソ連軍戦車を破壊していきました。また、日本軍伝統の肉弾攻撃も繰り広げられました。その手段たるや凄まじいです。
①穴を掘ります
②兵士が火炎瓶もって穴に隠れます
③戦車が上を通ります
④穴から突撃して火炎瓶投げつけます
ってな方法です。ソ連軍戦車はガソリンを燃料にしていまして、ものっそい燃えたそうです。もちろんこの方法は日本軍兵士側にも多くの犠牲を出すことになりました。
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ノモンハン事件は航空機を用いた空中戦も激しく行われました。日本の九七式戦闘機は単葉機(羽が一重)でありながら、複葉機(羽が二、三重)にも劣らない運動性能を発揮し、ソ連のI-153、I-16という戦闘機相手に大活躍しました。あ、一応説明しておくと単葉機ってのはスピード重視で、複葉機は運動性能重視です。後はだんだんと世界は単葉機主体に移っていきます。

さて、第一次ノモンハン事件は物量押しによってソ連が勝利しました。
しかし、ソ連の被害も大きいです。 スターリンによって送り込まれた戦況報告のための将校ジューコフはこんな報告書を送っています。「司令部の無能・準備不足のため大きな損害が発生した」 この報告書のため、現場指揮官は解任され、代わってジューコフが現場指揮官に就任します。この時期からを第二次ノモンハン事件と呼びます。ジューコフは司令部をハルハ川の高台に移動させ、5月の戦闘に参加した将校たちを解任します。さらにソ連本国に空軍力と戦車の増強を要請しました。
ソ連本国政府は要請された以上の軍備増強を行います。

このソ連軍強化の情報は日本軍も得ていました。しかし、大した対策も講じずに実戦経験の乏しい編成されたばかりの師団である第23師団を主軸に軍を展開します。

日本軍はハルハ川を渡って、ソ連軍陣地に奇襲をかける計画を立てました。しかし、戦車を渡すために川にかけた急造の橋が壊れてしまい、戦車が渡河できず、結局は歩兵主体で戦闘することになってしまいました。
奇襲をかけた日本軍を待ち構えていたのは400台もの戦車でした。しかし、5月の戦闘同様に歩兵は自らを犠牲にしてソ連戦車部隊に大打撃を与えます。なんと半数以上のソ連戦車が撃破されてしまいます。
とはいえ日本軍も被害甚大、一度引いて体制を整えなければなりません。両軍は一時距離を置きます。
7月、ジューコフはスターリンにこんな報告書を送っています。「日本軍兵士は練度がソ連軍兵士よりも高いが装備が決定的に劣っている」 ソ連軍兵士は予想外に日本軍が手強いために士気が低下していたそうです。逃亡してしまう兵もいたようです。 ここでソ連伝統の方法が採られます。戦車の乗組員が搭乗したあとに戦車の天蓋を溶接してしまうのです。火炎瓶で燃やされたらオーブン状態ですね、怖い怖いw
ここでスターリンはある方針を決定します。大量の増援を送って一気に決着をつけようとしたのです。というのも、この時期ヨーロッパにおいてますますナチスの脅威が強まっていまして、日本とナチスの二正面作戦を恐れたソ連は日本との短期決戦を決意します。

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一方の関東軍司令部でもある決定が下されます。ソ連とは逆に戦車部隊の撤退を決めたのです。日本の戦車というのはお世辞にも優秀とは言えないものでして、当時最新鋭の八九式中戦車であっても、ソ連のBT-5などの戦車のほうが強かったのです。島国の日本は戦車を海を越えて運搬しなければならないので、重量などに制限があったことなどが原因として考えられます。被害が大きくなってきたので戦車部隊は撤退させられることになりました。
さあ、8月のソ連増強後の戦力比は以下の感じです。
増強後ソ連軍:51950人
日本の数:ソ連の数の比率
兵=1:6  砲=1:7  戦車=0:438  装甲車=0:385
絶望的な戦力差ですね(^_^;)

戦線がこう着している間にもジューコフは大勢のスパイを満州に送り込み日本軍の情報を集めます。 スターリンの短期決戦要請を受けて、彼は8月17日に「20日早朝よりの総攻撃」を決定しました。日本軍を油断させるためにわざとモーター音や木を切る斧の音を聞かせて陣地構築を装い、さも長期決戦を考えているかのように誤解させることもやったそうです。
8月20日早朝、ソ連軍の大軍が総攻撃を開始しました。日本軍は果敢に戦いますが、次第に消耗していき、ついには壊滅するに至ります。この頃になるとソ連軍戦車もガソリンエンジンからディーゼルエンジンへと換装しており火炎瓶攻撃もイマイチ効果が上がらなくなり、優勢を保っていた航空戦もエースパイロットたちの戦死や一撃離脱戦法の採用によって撃破率が低下していました。
8月28日レミゾフ高原の日本軍が全滅したことにより、ソ連軍の勝利が確定しました。9月1日ソ連の新聞にて戦勝が報じられました。ちなみにその翌日2日の新聞の一面はナチスドイツのポーランド侵攻が報じられます。そう、WWⅡの開戦ですね。ちなみに最終的な両軍の損害は以下の通りです。

日本軍
戦死:8632名 負傷:9087名
全損:戦車8両 装甲車7両
航空機:損害157機
ソ連軍
戦死:9703名 負傷:15952名
全損:戦車253両 装甲車144両
航空機:損害200~250機

ノモンハン事件はかつて日本の惨敗だったと評価されていました。しかし以上のように、被害で言えばソ連軍のほうが大きく上回っています。日本軍の問題点は戦後の処理であります。
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なまじ歩兵突撃によってソ連軍戦車を撃破してしまったため、被害の大きさを忘れて2年後の太平洋戦争でも、同じ戦法を多用してしまうのです。その結果は皆さんご存じの通りです。さらに敗戦したというのに、関東軍の参謀達はまったく責任を取らなかったのです。辻正信を始め、関東軍の参謀達は太平洋戦争でも指揮を執り、大きな犠牲を生むことになります。
また捕虜についても、問題がありました。敗戦後の9月30日、関東軍はソ連軍の捕虜だった日本軍兵士に対する対応を決定します。「捕虜になった者には厳しく接し懲罰を与えよ」 この捕虜になるぐらいなら死ねという方針は太平洋戦争でも適用され、多くの軍人が自刃・手りゅう弾自殺を行う結果を生み出しました。
日本軍は2年の月日があったというのにこのノモンハン事件の教訓を何も生かさないまま太平洋戦争に突入していきます。1941年12月8日日本連合艦隊の機動空母部隊がアメリカ真珠湾に向かいます。これはまた別の機会のお話です。

http://www7a.biglobe.ne.jp/~mhvpip/Nomonhan.html
ノモンハン戦争から学ぶべきこと  
      2012年3月 Minade Mamoru Nowar                
1.辻政信の画策と独断専行
小さな国境紛争から始まった1939年5月-9月のノモンハン戦争(=事件)は、
関東軍(満州駐留の日本軍)の高級参謀に着任した辻政信が、
個人的な戦功をねらって次々と画策し、
大本営陸軍参謀本部を無視して独断専行を重ね、
日本・ソ連の双方に多大な犠牲を出した本格的戦争に発展させたのである。

満州国建国以降、ノモンハン戦争以前の1932年~1938年の7年間、
満ソ国境においては国境侵犯事件が多発していた。7年間で759件の多きに達する。
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1939年3月、辻政信は大本営陸軍参謀本部から関東軍の高級参謀に転属した。

着任した辻政信は、早速、『満ソ国境紛争処理要綱』を作成した。
4月25日、植田謙吉関東軍司令官は、辻政信の進言に盲従し、関東軍麾下の軍司令官、
師団長に、この『満ソ国境紛争処理要綱』を示達した。
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この要綱は「満ソ国境ににおけるソ連軍、蒙古軍の国境侵犯に対しては徹底的にこれを
膺懲(ようちょう)する(=戦って懲らしめる)」という、それまでの大本営陸軍参謀本部の
方針、「満ソ国境においては、【侵されても侵さない】、すなわち、国境侵犯事件を
戦争に発展させてはならない」という方針に全く反するものであった。

この紛争処理要綱が示達された直後の5月4日に小さな国境侵犯が起こった。
それが、10日、11日、12日、次々とエスカレートしていった。
ノモンハン戦争の最大原因は、この辻政信作成の『満ソ国境紛争処理要綱』であった。

辻政信の進言に盲従し、大本営陸軍参謀本部の方針に100%違反する要綱を示達した
植田謙吉関東軍司令官の方針無視と国際情勢判断力に呆れざるを得ない。
この示達は陸軍刑法第2章第35条及び第38条の擅権(せんけん)の罪に該当する。
それ以上に、辻政信に振り回された大本営陸軍参謀本部の【無知、愚かさ、統制力欠如】には
呆れざるを得ない。
(以下略)

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