コミンテルン*コミンテルンの策謀、盧溝橋事件 *第二次上海事変は大戦争だった* 実録 支那事変1・2・3・4/4

Comintern、Коминтерн
共産主義の国際団体、「第三インターナショナル」のこと。
インターナショナルと最初に名乗った共産主義団体はマルクスの作ったもので、その後成立したものと区別するために「第一インターナショナル」(第一インター)と呼ぶこともある。
第二インターナショナルは第一次世界大戦によって崩壊。ロシア革命(十月革命)の後、1919年3月に革命主体のボリシェヴィキが各国代表をモスクワに集めて結成[*1]。本来は世界革命を目指す団体だったが、スターリンの一国社会主義論によって、いうなればソ連共産党の各国支部[*2]のような存在になってしまう。
第二次世界大戦中の1943年5月に解散。
*1:日本共産党は1922年11月に加盟承認
*2:もしくは、各国共産党がコミンテルン支部


かつて日本は美しかった より【転載】
かつて日本人は清らかで美しかった。かつて日本人は親切で心豊かだった。
2011年7月 7日 (木)
コミンテルンの策謀、盧溝橋事件

盧溝橋事件は支那が仕掛けた。背後にはコミンテルンがいた。
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 盧溝橋事件は昭和12年(1937年)7月7日に北京西南方向の盧溝橋で起きた発砲事件です。我々は盧溝橋事件から日本の支那侵略が始まったと教わりましたが、それは真っ赤なウソでした。

 前年の12月に西安事件が起こりました。支那では国民党と共産党が抗争を繰り広げており、国民党の蒋介石総司令が張学良に逮捕、監禁され、共産党に引き渡されたのです。コミンテルン(モスクワで結成された共産主義の国際組織)は蒋介石を生かして利用する方針としました。そして蒋介石は解放されました。ここで密約があったとされています。以降、国民党は矛先を日本軍へ向け、共産党は高見の見物となったのです。

 二十九軍という支那軍の副参謀長・張克侠(共産党員)は義和団事件以来、条約にもとづいて北京周辺に散り駐屯していた日本軍への攻撃計画を策定していました。盧溝橋事件はその計画の一部です。これは支那側の資料でも明らかになっています。東京裁判の最中に劉小奇(共産党員)が「仕掛け人は中国共産党で自分は現地指揮者」と西側の記者に話しています。また、戦後、中共軍の将校となった経歴を持つ葛西純一氏は中共軍の「戦史政治課本」の中に、事件は「劉小奇の指揮を受けた一隊が決して機に中国共産党中央の指令に基づいて実行した」ものであることが書いてあるのを見たと著書に記しています。

 盧溝橋で衝突が起こった4日後、近衛内閣は不拡大方針を閣議決定。その日の夜には現地停戦協定が成立します。ところが、7月13日、大紅門事件といわれる北平(北京)大紅門で日本軍トラックが支那兵に爆破され日本兵4人死亡します。この日には国民党・蒋介石から二十九軍の長、宋哲元に「解決はありえない。政府は戦争を決断した」との電報が入りました。
 14日には日本軍天津駐屯騎兵隊が通州を経由して豊台(北京)に向かう途中、落鉄のために遅れた近藤二等兵が、支那兵に襲撃され、惨殺される事件が発生しました。19日には停戦協定中の第三項排日取り締まりに関する細目協定が成立しました。ところが7月20日に支那軍が再び日本軍へ向けて発砲。7月25日廊坊駅で日本軍が襲撃されます。広安門でも通過中の日本軍が城壁上の支那軍より「乱射を浴びる事件が発生。

 日本側は善意と忍耐は支那を助長するだけだと悟り、27日、内地3個師団の派兵を決定。28日には日本軍は二十九軍宋哲元に戦闘を通告します。そして北京南4キロの南苑を攻撃し、支那軍を敗走させます。退却にあたり、宋哲元は通州の保安隊に日本攻撃命令を出していました。このことが7月29日、あの通州事件を誘発し、日本人二百数十名が虐殺される事件となりました。

 まさにこれでもか、これでもか、という支那の挑発行為が続き、日本はやむなく応戦せざるを得なくなったのです。通州事件に至っては殺され方が極めて残虐であり、日本の対支那感情は大きく悪化しました。この頃、尾崎秀実(後にゾルゲスパイ事件で逮捕)が「昭和研究会」を通じて近衛内閣に接近していきます。

 戦後の東京裁判では盧溝橋事件を裁こうとしたら、連合国側にとってやばくなってきたようで支那の判事(共産党員)は審理を中断させました。東京裁判においては盧溝橋事件の犯人はいません。


かつて日本は美しかった より【転載】
2011年7月 9日 (土)
第二次上海事変は大戦争だった

日本の侵略などどこにもない。
3000
 昭和12年(1937年)8月の第二次上海事変はなるべく教えないよう、報道しないようされているといわれています。日本軍の陸戦隊の兵力と支那軍の兵力が知られると「日本の侵略」が成り立たなくなるからだそうです。山川の高校用教科書を見てみると・・・ズバリ!盧溝橋事件は書いてありますが、第二次上海事変はスルーしていました。第二次上海事変は4万の死傷者で、内1万余の戦死者です。支那事変の緒戦であり、最大の戦闘だったにも関わらず教科書が無視しているのですから明らかに意図的でありましょう。

 7月7日の盧溝橋事件から続くたび重なる挑発に8月9日、大山中尉殺害事件が発生。上海市長や6カ国からなる停戦協定共同委員会は支那側に謝罪と停戦協定を守るように勧告しますが、支那は戦争を始めるつもりであり、謝罪するつもりはありませんでした。このとき上海には海軍の陸戦隊が2,200名。日本人居留民は2万数千いました。危険を感じた日本軍は呉と佐世保から応援部隊を送り、あわせて4,000.そして支那軍は上海を3万で包囲しました。4,000の日本海軍陸戦隊が3万の支那軍相手に侵略戦争を始めるなど笑止千万。戦後いかにウソがばら撒かれてきたかわかろうものです。

 8月13日には支那軍は日本軍陣地に対し機関銃による射撃を突然開始し、上海大戦争が始まります。この上海での策略は蒋介石配下の張治中が作成したもので、ドイツのファルケンハウゼンら五百数十人のドイツ軍事顧問らとともに実行されました。日本人居留民は2万人あまり、それを守る海軍陸戦隊は4,000人、これらを殲滅する行為にでれば日本軍は増援部隊をよこすので、それらをトーチカでかためた内地に誘引し、日本軍十数万程度を殲滅する作戦です。
 8月15日に蒋介石は全国総動員令を発し、大本営を設置し、蒋介石は総司令に就任します。15日には増派し、7万の大軍で日本海軍陸戦隊を攻撃。日本軍も横須賀と佐世保の陸戦隊を追加派兵しましたが、それでも合計6,300名。最終的に日本軍は陸軍計九個師団を投入しますが、日本は大戦争を想定しておらず兵を逐次投入したため日本軍は大苦戦を強いられます。
 10月10日、上海派遣軍はゼークトラインに攻撃を開始、2日後には各所で突破に成功します。10月26日に上海近郊の要衝大場が陥落、国民党上海攻囲軍は以後南京への全面壊走に入りました。日本側死者1万あまり、負傷者3万あまり。

 第二次上海事変は宣戦布告していないので「戦争」と言っておらず、「事変」と言っています。しかし、内容は大戦争だったのです。これにはわけがあり、宣戦布告するとアメリカが中立法にしたがって石油などを禁輸してくるとおもったからです。これは支那側も同じ条件です。前線では松井石根大将が内閣へ宣戦布告要求しますが、近衛内閣は「ノー」という回答でした。内閣は現場とは別の構想を考えていたのです。(後の蒋介石政府は相手にせず)

 盧溝橋事件、上海事変、南京事変など日本が侵略目的で戦争を始めて拡大していったのではないことがよくわかります。昭和12年(1937年)8月30日のニューヨーク・タイムズでは一連の事件について「日本軍は敵の挑発の下で最大限に抑制した態度を示し、数日の間だけでも全ての日本軍上陸部隊を兵営の中から一歩も出させなかった。ただしそれによって日本人の生命と財産を幾分危険にさらしたのではあるが・・・」と報じています。 またニューヨーク・ヘラルドトリビューン紙は9月16日に「中国軍が上海地域で戦闘を無理強いしてきたのは疑う余地は無い」と報じてます。

 日本の侵略などどこにもありません。
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[広島ブログ]
実録 支那事変1/4
http://www.youtube.com/watch?v=eFZCRfUKwdc

実録 支那事変 2/4
http://www.youtube.com/watch?v=9laa8URy9ow

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実録 支那事変 3/4
http://www.youtube.com/watch?v=ysHdQ4vPk0I

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実録 支那事変4/4
http://www.youtube.com/watch?v=iCO7JkhTQbo

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Tag:コミンテルン*盧溝橋事件 *第二次上海事変*実録 支那事変   comment:1 

生きる力 ゲンマイ
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2016年1月1日 新年を迎え、日本に生まれた幸せをかみしめ、日本人で有る事の誇りを持ち、 生きる喜びを持ち続けたいと願いました。
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2011・2012この凄まじい年を生きている。幻想の世界が終り2013より今現在考えの及ばない 世界に入ると云われている。*私達の力がどれ程強いか、自己主権を持った者であり自由であるそれが現実です。意識が自由になって初めてそれが外に現れると。本当の自分を思い出す時が来た(ジョージ・カヴァシラス)