B37 二つのクリスマス

霊性の時代の夜明けより【転載】

B37 二つのクリスマス
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皆様はミズスマシという昆虫をご存知でしょうか。池や沼の静かな水面を、一時も休まずにクルクルと円を描いて泳ぎ回っている体長一センチに満たない黒い豆粒のような虫、それがミズスマシです。

では、このミズスマシが目を四つ持っていることはご存知でしょうか。ミズスマシも人間と同じように二つの目が一対になっています。つまりミズスマシは二対の目を持っているのです。でも、いったいなぜミズスマシには目が二対必要なのでしょうか。

ミズスマシはいつも水面にいます。水の上の空間と水の中の空間のちょうど境目にミズスマシは住んでいます。そこで、ミズスマシは二対の目を持ち、一対の目で水の上の世界を見、もう一対の目で水の中の世界を見るようになっているのです。
 
さて、では皆様は、人間が二対の目を持っていることをご存知でしょうか。そんな馬鹿な、と誰もがおっしゃるでしょう。でも、本当です。ただ、私たちはふだん、そのことに気づいていないだけなのです。

人間も二対の目を持っています。一対は、外なる世界を見るため、そしてもう一対は、内なる世界を見るための目です。人間も、ミズスマシと同じように、二つの世界の境目に住んでいる生物なのです。けれども、私たち現代人はそのことをほとんど忘れています。外なる世界ばかりに関心がいっているため、内なる世界を見る目を持っていることを忘れてしまっているのです。
 
外なる世界、それは私たちが普通に見ている物質世界です。私たちは心の中から一対の目を通して、身体の外にある世界を眺めています。

いま、外なる世界ではクリスマスを迎えています。商店街にはジングルベルが鳴りわたり、トナカイの引くそりに乗った赤い衣装のサンタクロースがデパートの入り口を華やかに飾ります。人々は、赤いリボンをかけたプレゼントやクリスマスケーキの包みを抱えて家路を急ぎます。賑やかなパーティを楽しむ人たちもいます。このような様子をみて、クリスマスが商業主義に毒されていると非難する人もあります。けれども、私は非難はしません。一年に一度、人々がお互いのことを思い出し、優しい気持ちでプレゼントを交換しあったりするのは悪いことではありません。できればそのとき、身内や友達のことだけでなく、ふだんお付き合いはないけれども近くに住んでいる貧しい人たちや、遠く離れた世界のどこかで飢えや寒さや病気に苦しんでいる人たちのことを思い出すことができれば、もっとすばらしいと思います。

一方、教会に集まって、あるいは自分の家で、もっと静かなクリスマスを過ごす人たちもいます。世界中で多くのクリスチャンが、暗闇の中にある世界に光を与えるキリストを象徴するローソクに火を灯し、その光を手から手へ移していきながら
  神のみ子は今宵しも
  ベツレヘムに生まれたもう
と歌います。
私たちの住む北半球では、季節は冬です。冬至を過ぎた太陽は、来たるべき春に向けてすでに回復の途についています。暦は年末が押し迫り、一週間後には新しい年の始まりが待っています。闇の世から光の世へと変わる予感に満ちたワクワクするような時です。これが外なる世界のクリスマスです。
 
内なる世界にもクリスマスがあります。内なる世界は、私たちの一人一人の心の奥にあります。静かな場所で、心の奥深くに意識を集中して、かすかな直感の訪れに耳を澄ましてください。人間の心の奥の奥、ついには心の裏側に突き抜けてしまったと感じるようなところに、人間が神と出会う場所があります。ときにはそこで明るい「光の存在」に出会ったり、真理の象徴として夜空に輝く星の映像を見る人もいます。けれども、何も見えず、何も聞こえず、ただ人間の思考がたてる雑音がザワザワしているだけという人も大勢います。

何も見えなくても、何も聞こえなくても,心配はいりません。私たちの内なる世界を見る目は、あまりにも長いこと使っていないので退化してしまい、神の気配を感じ取れないことの方が多いのです。けれども、そこに静かにとどまって、ローソクではない本物の「光」を待ってください。キリストである「光の存在」に会いたいという望みを持ち続けてください。三分でも五分でも、十分でも二十分でも、続けられるだけ待ち続けてください。昼でも夜でも、できる時にはいつでも、心の奥に入っていってキリストとの出会いを待ち続けてください。何も起こらず、何も感じられなくても、そのことを通じて神のエネルギーは確実にあなたの中を流れます。あなたは気づかぬ間に変わっていきます。そしていつの日か「確かに私は神の衣の裾に触れたのだ」と思える時が来ます。
 
外なる世界では、キリストは二千年前に、日本から一万キロも離れた中東のユダヤの地に生まれました。時間的にも空間的にも、はるかにはるかに遠いところでの出来事です。けれども、内なる世界には時間も空間もありません。内なる世界では、キリストがあなたの中に生まれるのは今です。現在のこの瞬間です。そして、あなたにとっては生まれたばかりであっても、キリストは無力な赤ちゃんではありません。無限の愛と、無限の知恵と、無限の力である永遠の命の光です。
 
すべての人間、すべての人は、心の奥底に神との接点を持っています。すべての人が、自分自身の心の奥深くで神と出会うことができるのです。例外はありません。男か女か、年寄りか若者か、金持ちか貧しい人か、健康な人か病気がちの人か、良い人か悪い人か、キリスト教を信じているかいないか・・・。そのようなことは一切関係なく、すべての人が心の中に神とつながることのできる聖なる場所を持っているのです。
 
内なる世界のクリスマスとは、そのことを思い出すことです。私たちが神と出会い、私たちの一人一人に贈られた神の御子を拝む場所は、私たちの心の中にあります。そこに行くのに物理的な距離は何もありません。けれども心理的には、そこは私たちからとても遠いところかも知れません。二千年前、東方の博士たちが遠い遠いところからベツレヘムをめざして旅をしました。ひょっとしたら、私たちが自分の心の奥底にあるベツレヘム、御子との出会いの場所に行くには、それよりももっと遠い旅行をしなければならないのかも知れません。

多くの宗教に聖地への巡礼の旅というのがあります。私は、そのような巡礼の旅は、すべての人が自分の心の中でしなければならない旅の象徴だと考えています。ほんとうの聖地は私たち一人一人の心の中にあるのです。 内なるクリスマスを祝うには、ケーキもプレゼントもいりません。心の奥の聖地へ向けて聖なる旅の第一歩を踏み出すこと、すでに旅の途上にある人はさらに次の一歩を進めること、それが最高のお祝いです。はるかな聖地の上に輝く導きの星の光をのぞみ見ながら、一歩ずつ歩いて行きたいと思います。

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B36 エデンの東

霊性の時代の夜明けより【転載】

B36 エデンの東
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さて、アダムは妻エバを知った。彼女は身ごもってカインを産み、「私は主によって男子を得た」と言った。彼女はまたその弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。時を経て、カインは土の実りを主のもとに献げ物として持って来た。アベルは羊の群れの中から肥えた初子(ういご)を持って来た。主はアベルとその献げ物に目を留められたが、カインとその献げ物には目を留められなかった。カインは激しく怒って顔を伏せた。
主はカインに言われた。
「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない。」
カインが弟アベルに言葉をかけ、二人が野原に着いたとき、カインは弟アベルを襲って殺した。
主はカインに言われた。
「お前の弟アベルはどこにいるのか。」
カインは答えた。
「知りません。わたしは弟の番人でしょうか。」
主は言われた。
「何ということをしたのか。お前の弟の血が土の中からわたしに向かって叫んでいる。今、お前は呪われる者となった。お前が流した弟の血を、口をあけて飲み込んだ土よりもなお、呪われる。土を耕しても、土はもはやお前のために作物を産み出すことはない。お前は地上をさまよい、さすらう者となる。」
カインは主に言った。
「私の罪は重すぎて負いきれません。今日、あなたが私をこの土地から追放なさり、わたしが御顔から隠されて、地上をさまよい、さすらう者となってしまえば、私に出会う者はだれであれ、私を殺すでしょう。」
主はカインに言われた。
「いや、それゆえカインを殺すものは、だれであれ七倍の復讐を受けるであろう。」
主はカインに出会うものがだれも彼を撃つことのないように、カインにしるしを付けられた。カインは主の前を去り、エデンの東、ノド(さすらい)の地に住んだ。
日本聖書協会 新共同訳聖書 創世記4章1-16節
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50年程前、『エデンの東』という映画がありました。若くして死んだ青年俳優ジェームス・ディーンの名と共に覚えていらっしゃる年配の方も多いのではないでしょうか。その「エデンの東」という題名は、この聖書の物語から取られています。
 
この「カインとアベルの物語」は、西洋では非常に有名な物語であるにもかかわらず、たいへん理解しがたい物語です。この物語は、人類の最初の兄弟殺しの話とされています。けれども、カインがアベルを殺した原因は、二人が同じように献げ物を持って来たのに対して、神がアベルだけをかえりみ、カインを無視されたからなのです。なぜ、神はこのような「えこひいき」をしたのでしょうか。このことについては、どの注解書をみても、結局「神がなさることは不可解であり、人間はただそれを受け容れるほかはない」という解釈をとっているように見受けられます。
 
けれども私は、「この物語は夢を読み解くように読むべきである」と考えています。
夢を解くといえば、同じ創世記の40章から41章にかけて、有名なヨセフの夢解き物語があります。エジプトの王ファラオが「7本のよく実の入った麦の穂を、後から出てきた7本の痩せた麦の穂が飲み込んでしまう」という不思議な夢を見ます。宮廷には誰もそれを解く者がいなかったのですが、牢獄の囚人であったヨセフがそれを読み解いて7年の飢饉を予測したため、高位の職に取り立てられたという、これも聖書を読む人にはよく知られた物語です。このときヨセフは言います。 「よく実の入った7本の麦の穂は7年の豊作を表します。後から来た7本の痩せた穂は7年の飢饉を示します。」・・・
 
夢は言葉の論理を超越しています。論理的に理解しようとしても理解することはできません。夢はシンボルによって語られる暗号です。シンボルが何を表しているかを知ることが夢を解く鍵です。

カインとアベルの物語を解く鍵となるシンボルは何でしょうか。それは「土」と「羊」です。そして、土は人間の物質性を表し、羊は霊性を表しているのです。
 
創世記の二章に「主なる神は土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。」とあります。当時、原子や分子といった言葉はありませんでした。土の塵とは、原子や分子のことを指しているのではないでしょうか。人間の身体は土を構成するのと同じ原子や分子によって作られ、死ねば分解してまた土に戻って行きます。したがって、「土」が人間の物質的側面を表すシンボルとして使われるのは自然なことだと思われます。これに対し、羊は、「神の子羊」「私の羊を飼いなさい」など、つねに神が心にかけるものを表すのに使われます。神が心にかけるものとは、人間の霊的側面のことにほかなりません。
 
カインは土を耕す者でした。彼は、人間が物質世界を耕して文化文明を発達させ、そこからさまざまな成果を獲得する側面を表しています。アベルは羊を飼う者でした。彼は、人間が霊性をはぐくみ育て、霊的に成長して行く側面を表しています。彼らは二人の別々の人間を表すのではなく、すべての人間の二つの側面を表しているのです。
 
この物語の原典はヘブライ語で書かれていますが、手元にある注解書(ATD旧約聖書注解)によれば、アベルというのは「息」あるいは「虚しいもの」を意味するへベルという語を連想させる言葉であると書かれています。これはまさに霊を意味するギリシャ語のプネウマ(風、息、霊)に相当する言葉ではないでしょうか。
 
これに対し、カインというのは「槍」を意味するそうです。私は、これは「男性」を表すシンボルだと思います。槍や棒のようなものが多くの文化の中で男性のシンボルとなっているのは周知の事実です。

また聖書は、カインが生まれたとき、エバが「私は主によって男子を得た」と言った、と書いていますが、ATDによれば、「この男子という言葉にイーシュ(男)という語が使われており、生まれたばかりの男の子にこの言葉を使うのはきわめて異例である」そうです。また、この「得た」という言葉には、「創造する」という意味のカーナーという語が使われているそうで、「これもまったく不可解である」と注解書は書いています。けれども「主によって創造された男」といえばアダムのことではありませんか。これは、槍(男)=イーシュ(男)=アダム=土(アダマ)とつながって行き、やはりカインが「土」すなわち物質性を象徴するものであることを示していると思います。
 
このように、カインが人間の物質性を表し、アベルが霊性を表すものであるとすれば、神がカインの献げ物を無視し、アベルの献げ物だけに目を留めたのは当然過ぎる結果です。神にとって、物質は無意味だからです。カインは怒ってアベルを殺しました。これは、人間が霊性を抑圧し、物質性だけによって生きるようになったことを意味しています。
 
カインとアベルの物語は、アダムとイブの物語のテーマを繰り返しているのだと、私は思います。アダムとイブは知恵の木の実を食べて、エデンの園から追放されました。私はこれを、人間が理性によって判断することに頼り、神の言葉を聴くことをしなくなった、という意味だと解釈しています。聖書では、神が怒って二人をエデンの園から追い出したように書いていますが、私は、人間が神の言葉を聴かなくなったとき、そこがエデンの園であり続けるはずがないと考えます。アダムとイブは自動的にエデンの園から放り出されたのです。

カインも神の前から去り、エデンの東のノド(さすらい)の地に住んだと書かれています。人間が霊性を抹殺したとき、神との接点は失われ、そのとき人間の住んでいた場所がどんな場所であったとしても、そこは変質し、楽園ではなくなるのです。
 
ATD注解書によれば、カインとアベルの物語は歴史的な実話ではなく、紀元前1000年ごろヤハウィスト(本名はわからないが、神の名前にヤハウェという名を用いるので便宜上こう呼ばれている)と呼ばれる人物が、その思想を伝えるためにそれ以前の伝承を利用してつくりあげた神話であるとされています。この物語は、人類の歴史の出発点の重大な秘密を、神話の形で伝えているのです。
 
人類は、霊性をまったくもたない、物質性だけの存在としてスタートし、霊性を回復する旅を続けて来ました。

神は、アベルを殺したカインに、罰として放浪の旅を命じたわけではありません。地上をさすらうもの、物質世界でさまよいつづけるものとなるのは、霊性を失ったものの必然的な運命です。けれども、人間を愛する神は、人類がふたたび霊性を回復するように、辛抱強く助け導いておられます。人間の社会に秩序を与え、倫理道徳を教え、愛を教え、さらに霊性について教え・・・、段階を踏みながら、次第に人間が意識を高め、霊性を再獲得するようになるまで導いておられるのです。
 
アベルの献げ物にならって、羊を神に捧げるいけにえの習慣が続けられました。それは人間が霊性を育て、それを神に捧げる、つまり霊性を通じて神と交わるようになることを意味しているのです。けれども、霊性を失った人間にはその意味はわかりません。いけにえの素材にも牛や鳩が加わり、ただ犠牲の動物を焼いて祭壇にのせるという行為だけが続けられることになりました。

そこで、預言者の時代になると神は預言者を通してこう語られます。
   「私が喜ぶのは愛であっていけにえではなく、
   神を知ることであって焼き尽くす献げ物ではない。」(ホセア6章6節)
これは、神みずから、いけにえの意味を解き明かしておられるのです。羊が問題なのではない、羊が意味しているものが大事なのだと。あなたたちの霊性を育て、霊性を私の前に供えなさいと。
 
さらに時が下ってイエス・キリストになると、もうシンボルではなく、直接的な言葉で語られます。
   「神は霊であるから、神を礼拝するものは、霊と真理とをもって礼拝すべきである。」    (ヨハネ4章24節)
人間はすこしずつ霊性を発達させ、ようやく直接的な言葉で霊性について語ることが出来るほどになってきたのです。
 
それからさらに2000年が経過し、私たちはいま二十一世紀の入口に立っています。二十一世紀は「霊性の時代」といわれています。私たちはいま、長い長い旅の終わりに近づいているのです。西暦2000年に行なわれたシドニー・オリンピックのマラソンにたとえれば、私たちはいま最後の競技場に入るトンネルにさしかかっているところです。ゴールはまだ見えていません。周りはかえって暗くなっています。けれども、先頭ランナーはもうすぐ競技場にはいります。トンネルを出て右に曲がれば最後のトラックです。そして私たちはトラックを一周し、両手を高く上げてゴールに入るでしょう。このマラソンに勝ち負けはありません。順位は問題ではないのです。市民マラソンと同じように、誰ひとり落ちこぼれることなく、全員がゴールインすることが大切なのです。
 
長い長いマラソンでした。人間が霊性を捨ててから、ふたたび霊性というものを理解できるようになるまで、六千年、一万年、十万年、あるいはひょっとしたら何百万年もかかったのかもしれません。もうすぐ、私たちは霊性について理解するだけでなく、それを獲得し、それを通じて神と日常的に対話し、神の声に絶えず聴き従って生きるようになるでしょう。それこそが主の再臨のとき、本当のクリスマスです。主は、あそこにおられる、いやあちらだ、というような形でこられるのではありません。私達一人一人の心の中にこられるのです。
 
最後にもうひとつ付け加えておきます。
聖書のカインとアベルの物語の終わりに不可解な言葉が残されています。それは、「神は、カインが殺されないように、カインにしるしを付けて守った」というところです。神はカインを何者に対して守ったというのでしょうか。カインを襲って殺すかもしれない者達というのはいったい何者なのでしょうか。
 
カインが一人の人間なら誰か他の者が襲って殺すこともあるでしょう。ある小さな部族を表しているのであれば、他の部族がカイン族を滅ぼすということもあるでしょう。けれども、この物語は単なる一種族の起源物語ではなく、人類そのものの出発点の真実を伝えているのです。したがってカインとアベルは全人類を代表しているのです。もしそうなら、カインに出会ってカインを殺すかも知れないとされた者たちは、人類以外のものたちでなければなりません。それはいったい何者なのでしょうか。
 
私たちのマラソンに、沿道の観客はいませんでした。私たち地球人類は宇宙の中で孤立していると、科学は教えます。火星や金星に行った惑星探査機も、火星人や金星人を発見することはできませんでした。けれども、実はこの宇宙には、人間の目には見えない霊的存在があふれているのです。神がカインにしるしを付けて守ったというのは、人類をそのような霊的存在たちから守ったのです。

地球は隔離されました。霊的存在たちは私たちに触れることはできなくなり、私たちも彼らの存在を知ることはできませんでした。もしそうしなかったら、霊性を失った地球人類は非常に弱い存在であり、霊的存在たちが、悪意はなくても、不用意に接触しただけで、手ひどい打撃をこうむる恐れがあったのです。
 
やがて、私たちが霊性をふたたび確立し、霊的視力を回復したあかつきには、私たちは大勢の観客に見守られていたことを知るでしょう。ゴールの競技場の観客席は、大勢のそういった観衆で超満員になっています。彼らは、私たちがゴールインしたら大祝宴を張ろうと待ち構えているのです。なぜなら、私たちこそ、失われた一匹の羊であり、放浪の旅から帰ってきた放蕩息子だからです。

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B35 神はカーナビ

霊性の時代の夜明けより【転載】

B35 神はカーナビ
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わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。
日本聖書協会 新共同訳聖書 マタイによる福音書28章20節
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「神はカーナビのようなものだ」と言っても、何のことだかお分かりにならないでしょうね。中には、そんなことを言っていいのだろうかと思われる方も、あるかも知れません。
けれども、事実は事実です。わたしたちはみんな「人生」という名の車を運転してドライブをしています。神はそのドライブを案内してくれるカーナビのようなものです。
神とカーナビがどれほど似ているかということをお話ししましょう。
 
(1) カーナビは、最初に目的地を入れてやると、現在の場所から目的地に行くまでの経路を自動的に設定してくれます。
私たちも、この世に生まれてくるときに、この人生の目的を定め、経路を設定して生まれてきます。その経路は神に登録されています。 ただし、私達は普通の意識(顕在意識)では、そのことを覚えていません。そこで、私たちは、まったくの白紙の状態で、自分で道を決めて生きているように思っているのです。
 
(2) カーナビに経路が設定されていても、私たちはそれを無視して運転することができます。カーナビには、いかなる強制力もありません。
神も、私たちに、あらかじめ設定された経路をたどるように強制することはありません。私たちはいつでも、その経路を外れて違う道に入って行く自由をもっています。私たちは人生の道筋を自分で選択し、決定します。そのときに、私たちは、善悪や損得や好き嫌いや不安や怖れにもとづいて勝手に判断する結果、次第に最初に設定された経路から外れて行き、ついには迷路に入り込んでしまうのです。
 
(3) 私たちがどんなに変なところに入り込んだとしても、カーナビは目的地に行く道を見失うことはありません。そして、絶えず、こちらに行きなさい、と叫んで、道を教えてくれます。
神も、私たちがどんな状況にあろうと、私たちが自分の人生に設定した目的と、それを達成するための道を見失うことはありません。そして、神は絶えず私たちに「正しい道」に戻る方向を教えてくれています。けれどもそれは、心の奥のほうに語りかける、静かでかすかな声です。もしそうでなくて、神が大きな声で私たちに怒鳴りつけるとしたら、神は私たちの人生を支配することになります。私たちは、自分の自由意志を失ってしまうでしょう。私たちが自由な人間であるためには、神の声は小さな声でなければならないのです。私たちがいつでもそれを無視できるものでなければならないのです。そして、私たちは実際にそれを無視し続けています。 
 
(4) 私たちがどんなにカーナビのいうことを無視しつづけたとしても、カーナビは決して怒りません。
神も同じです。私たちが神のメッセージをどれほど無視しつづけようと、神が怒ることはありません。神はただひたすら「今の状態」から、本来の道に戻るための方向だけを指し示すのです。それを採用するかどうかは、私たちの自由です。
神が人間に語りかけるのは、すべて人間のためなのです。
小さな子供が誤って火をつかみそうになったとき、親はあわてて「それに触ってはいけません」と言います。けれども、それは火に触ることが悪いことだからではありません。火に触ればやけどをすることを親は知っています。だから、親は「それはあなたにとって苦痛を生じることですよ」と言うのです。
神も同じです。神が人間に「あれをしてはいけない、これをしてはいけない」と戒律をあたえた、といろいろな宗教が語ります。けれども、それらの戒律はすべて、それをするのは悪いことだといっているのではありません。「それをすればあなたは苦しみますよ」と言っているのです。 「甘いものを食べ過ぎたら、糖尿病になって、苦しみますよ」という忠告と同じなのです。
 
(5) カーナビは、決して過去の間違いをとがめません。
カーナビは、絶えず「今いる場所」から目的地に行く道を示します。過去にさかのぼって、「あなたがあそこで道を間違ったのがいけないのだ」などということは言いません。
神も同じです。神は、絶えず、私たちが「今いる場所」から本来の道に戻る方法を教えます。それが、どんなに苦しい道であったとしても、それは私たちの「過去の間違い」に対する罰ではありません。ただ、「今いる場所」から本来の道に戻るためには、どうしてもそのような苦しい道を通らなければならない、というだけのことです。
たとえば、あなたが泥沼に入り込んで身動き取れなくなっているとしましょう。カーナビである神はあなたにどっちのほうに向かって歩きなさい、ということを教えてくれます。けれども、もしあなたが泥沼の真ん中にいるなら、どっちを向いても、とにかく泥沼をある程度歩かなければ岸に上がることはできないのです。
神は、過去の私たちを見てはいません。神はただ、いま現在の私たちを見て、そこからどうすれば本来の道に戻れるかを教えてくれるのです。どのような理由で、あるいは、どのような経緯で、私たちが今の状態になったかというようなことは、神にとっては何の意味もないのです。神がすべてを許しておられるというのはこのことです。
 
(6) カーナビは決して自分では運転しません。
カーナビは決して自分では運転しません。運転するのはその車に乗っている私たちです。カーナビは道案内はします。けれども、運転するのは私たちです。
神も同じです。神は道案内はします。けれども、私たちの「人生」という車を運転するのは、神ではありません。それは私たち自身です。神がどんなに道案内をしてくれようと、私たちが自分で運転するのでなかったら、私たちはどこにも行くことはできません。
 
私たちは、いわば、このようにカーナビのついた車に乗って人生という名のドライブを楽しんでいるのです。けれども、たいていの人がカーナビがついているということさえも忘れてしまっているために、個人においても、世界全体においても、さまざまな困難に遭遇することになるのです。

人間が霊性を取り戻すということは、いわば、このカーナビの使い方を思い出すということなのです。 
2004年1月8日 エノクの会最終回

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B34 神の国と神の義を求めよ

霊性の時代の夜明けより【転載】

B34 神の国と神の義を求めよ
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だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存知である。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。
日本聖書協会 新共同訳聖書 マタイによる福音書 6章31-33節
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長いので一部しか引用しませんでしたが、6章25節から始まるこの一節も、たいへん有名な個所です。そして、ここに掲げた「神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」というイエスの言葉には、イエスの教えの核心が凝縮されています。けれども私は、この聖句を読むときに、ちょっとしたコツが必要だと考えています。きょうはそのことをお話したいと思います。

この聖句を読むとき、神の国、神の義の「神」に強いアクセントを置いて読んで下さい。そうすれば、この聖句が何を言おうとしているかが、自然にわかってきます。

この聖句には、「何か別のものの国」ではなく「神の国」を求めなさい、「別のものの義」ではなく「神の義」を求めなさい、というように、暗に対比するものが隠されているのです。

では、その「別のもの」とは何でしょうか。それはエゴです。この聖句は、エゴの国ではなく神の国を求めなさい、エゴの義ではなく神の義を求めなさい、といっているのです。

私たちは「神の国を求めなさい」という言葉を聞いたとき、どんなことをイメージするでしょうか。漠然と天国がこの地上に降りてくるようなイメージを抱いているのでははないでしょうか。そのような受け取り方が必ずしも間違いというわけではありませんが、私はもう少し主体的、能動的に受け取るべきであると考えています。
 
国と訳されているのは英語ではkingdomです。Kingdomという言葉は、現在では、王が治めている領域、王国という意味ですが、古くは王の権威、王の統治そのものを意味する言葉でした。つまり「神の国を求めなさい」とは、「神の統治、神の支配を求めなさい」という意味です。
 
では、神に何を支配するように求めるのでしょうか。これは、漠然と「世界を神が治められるように」ということではありません。「世界を神が治められるように」と言うとき、エゴの意識では、世界の中に自分は入っていません。これがエゴの巧妙な論理なのです。エゴは絶えず「自分対世界」という対立の構図を心のうちに描いており、「悪いのは世界であって、自分ではない」「世界は変わってほしいが、自分は変わりたくない」というような願望を持っているのです。
 
けれども、この聖句が言っているのは、そのような願いではありません。あなたが求めるべきものは「あなたを神が統治されること」です。この聖句は「あなた自身を神が支配されるように求めなさい」と言っているのです。それは、別の言葉で言えば「あなたが神に従いなさい」ということです。
 
私たちはいま、エゴに服従しています。エゴが私たちの心を支配し、思いを支配し、感情を支配しています。けれども、イエスは言われます。「エゴの国ではなく、神の国を求めなさい。エゴに従うのではなく、身も、心も、思考も、感情も、神の支配に委ねなさい」と言われるのです。
 
義とは「正しいこと」です。「エゴの義ではなく、神の義を求めなさい」とは、「あなたが正しいと思うことではなく、神が正しいと思われることを求めなさい」ということです。これは、「あなたの価値観を神の価値観に合せなさい」と言っているのです。
 
ふつう私たちは気がついていませんが、私たちは「神が正しいと思われること」を求めていません。「自分が正しいと思うこと」を神に求めているのです。「自分がよいと思うこと」「自分がほしいと思うこと」を求め、それを神が実現してくださるように求めているのが、私たちの現実です。それは神に対して「私のエゴの価値観にしたがってください」と言っているということです。
 
けれども、イエスは言われます。「エゴの価値観に従うのではなく、神の価値観に従いなさい。エゴが求めるものではなく、神が求めるものを、あなたも求めなさい」と言われるのです。「エゴに従うのではなく、神に従いなさい。エゴが求めるものではなく、神が求めるものを求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて付け加えて与えられるのである」というのが、最初に掲げた聖句の意味です。

神は物質的なものを軽んじておられるわけではありません。なぜなら、私たちにとってそれらのものが必要なことを、神はご存知であるからです。私たちが神に無条件に従うようになれば、物質的な必要も満たされるようになります。

けれども、エゴの義ではなく、神の義に従うというのは、容易なことではありません。エゴの価値観と神の価値観が、大きくかけ離れているからです。
 
ある女性が「無条件の愛」を学ぶ決心をしました。彼女は「無条件に愛することができるなら、どんなことでも喜んで受け入れます」と神に祈りました。ところが、彼女に起ったことは破滅的なことでした。彼女は長年つれそってきた夫に捨てられてしまったのです。彼女は悩み苦しみ、神に祈って「どうしてこうなったのか」と問いただしました。するとこういう返事が返ってきました。「あなたは、無条件の愛を学ぼうとしたのではないですか。これは無条件の愛を学ぶとてもいいチャンスですよ」(アイリーン・キャディ著、山川紘矢・山川亜希子訳、『愛の波動を高めよう』、日本教文社)。
 
神の価値観とエゴの価値観は、これくらい違うのです。
 
私たちは物質世界でままごとをしています。そこには美味しそうなご馳走が並んでいて、お客様が来て、食べる真似をして、ご馳走様でしたと挨拶をします。ままごとの中では、泥のお団子や、草の葉っぱのお料理も立派なご馳走です。けれども、大人の目から見ればそれはすべて偽物です。仮想の料理です。ままごと遊びが無意味だといっているのではありません。けれども、ままごとは本物の生活ではありません。本物の生活をはじめるための練習の段階、予行演習の段階なのです。
 
私たち人間は、いつまでもままごと遊びをしていたい子供のようなものです。けれども、神は私たちが成長することを望んでいます。ままごとではなく、本物のお料理をはじめなさい、と呼びかけておられるのです。

さまざまな試練と見えるものは、私たちがエゴの価値観にしがみついているときにやってきます。私たちの魂の成長に役立つことが、エゴにとっては恐ろしい試練に見えるのです。私たちがエゴの価値観を手放せば手放すほど、試練に出会うことは少なくなるでしょう。試練の必要性がなくなるからです。
 
マタイによる福音書では、イエスのこの講話の直前に、「B20 二人の主人」の話が置かれています。これは偶然ではありません。「あなたがたは神と物質世界の両方に仕えることはできない」という教えと、「エゴの国、エゴの義を求めることをやめて、神の国、神の義を求めなさい」という教えとは、同じことを言っているのです。
 
あなたが物質世界の価値観によって生きるのをやめ、本当に神の価値観に従い、神の導きに従う決心をしたときにはじめて、あなたの世界は変わりはじめるのです。
2003.12.20 第34回エノクの会

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B32 神のこどもたち

霊性の時代の夜明け より【転載】

B32 神のこどもたち--------------------------------------------------------------------------------
御父がどれほど私たちを愛してくださるか、考えなさい。それは、私たちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです。世が私たちを知らないのは、御父を知らなかったからです。愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし御子が現われるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです。御子にこの望みをかけている人は皆、御子が清いように、自分を清めます。
日本聖書協会 新共同訳聖書 ヨハネの手紙Ⅰ 3章1-3節 
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人間はみんな神の子です。神のこどもたちです。英語の聖書には children of Godと書かれています。チルドレンといわれると、何かかわいい幼稚園の子どもたちを思い浮かべませんか。この感じを憶えてください。
 
この記事を書いたヨハネは、イエスを信じる自分たちだけが神の子であると考えていたかも知れません。けれどもほんとうは、私たちはみんな神の子なのです。よい人ばかりが神の子なのではありません。極悪の犯罪人も、病気の人も、身体に障害を抱えた人も、みんな神の子なのです。イエスを信じる人も信じない人も、みんな神の子なのです。ただ、そのことを知らない人や知っていても信じない人は、神の子である自分を体験することができないのです。
 
ルカによる福音書15章に有名な「放蕩息子のたとえ」があります。お金持ちのお父さんから財産を分けてもらった息子が、放蕩の限りを尽くして財産を使い果たしてしまい、豚の餌を食べたいと思うほどに困窮したあげく、やがてお父さんのことを思い出して家に帰っていく、という話です。これに似た話が、仏教にも「長者窮子(ちょうじゃぐうし)のたとえ」として伝えられています。

この息子が、お金をもって遊び暮らしているときも、お金がなくなって物乞いをして歩くようになったときも、この息子がお金持ちのお父さんの息子であるという事実には変わりありません。けれども、この息子が物乞いをして暮らしていたとき、「お金持ちの息子である」ということは、この息子にとって何の役にも立ちませんでした。息子が「自分はお金持ちのお父さんの子なんだ。お父さんのところに帰れば、お金なんていくらでもあるんだ」ということを思い出し、「お父さんのところに帰ろう」と決心したときに、はじめてこの事実が役に立つようになったのです。
 
私たち人間も同じです。人間が神の子であるという事実は、人間がどのような姿になっていようと変わりません。けれども、私たちが「自分は神の子である」ということを思い出し、「神のもとに帰る」まで、そのことは何の役にも立たないのです。
 
先日「泥んこ遊びをしているこどもたち」というたとえをお話しました。私たちは泥まみれになって泥んこ遊びをしているこどもたちのようなものです。あまりに泥にまみれてしまったために、私たちは、自分もひとも、芯まで泥でできた泥人形だと思い込むようになってしまいました。けれども、泥んこ遊びをするこどもたちが、どんなに汚れても芯まで泥人形になってしまうわけではないように、どんなに泥まみれになっていようとも、神の子は神の子なのです。
 
ヨハネが「私たちは今既に神の子である」といっているのは、とても重要な意味を持っています。自分が本当の泥人形だと思うこどもは泥を洗い落とそうとは思わないでしょう。「自分は本当は泥人形ではなくて人間なんだ」と思う子供だけが泥を洗い落とそうという気持ちを持つのです。それと同じように、自分を神の子と信じない人は、神の子の姿を現したいと思いつくことはないでしょう。「自分は本当は神の子なのだ」ということを信じることのできる人だけが、「自分が神の子の姿を現したら、どんな姿になるのだろう」と考えることができるのです。
 
では、神の子の具体的姿はどんなものなのでしょうか。
聖書にはたいへん微妙な言い方が使われています。「わたしたちは今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません」とヨハネは書いています。ヨハネは私たちの今のありのままの姿が神の子の姿であるとは言っていません。「神の子の具体的な姿はわからない」といっているのです。
 
ヨハネはそれを分からないと書きましたが、続いて「しかし御子が現われるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです」と書いています。
 
この文章は、少なくとも3通りに解釈ができると思います。一つは「神の子とはイエスのような人」という意味です。けれども、もしそうであれば、ヨハネがこの手紙を書いたのはイエスが死んだあとのことですから、神の子がどういうものであるかは既に示されている、と書くはずです。
 
もう一つの解釈は「御子が現われるとき」というのを、いわゆる「終わりの時」「終末」と考えるものです。終わりの時に「神の子が雲に乗って現われる」と言われています。けれども、もしそうなら、私たちはそれまで待ちつづけなければなりません。「終わりの時」についてはいろいろの解釈がありますが、一般にかなり遠い未来だと考えられています。それまで私たちは「自分が神の子である」ということがどういうことであるか、わからないままでいなければならないのでしょうか。

ヨハネは「そのとき御子をありのままに見るからです」と書いていますが、終わりの時に御子が雲に乗って現われたとしても、それが遠いエルサレムかどこかであったとしたら、私たち日本人は御子と顔を合せて、御子の姿をありのままに見るというわけにはいかないでしょう。
 
けれども、実はそうではありません。「御子があらわれるとき」というのは、「私たちの内面において御子との交わりが成立するとき」ということなのです。御子は、私たちの心の内面に現れるのです。世界中どこにいても、誰でも御子と顔を突き合わせて一対一で会うことができるのです。それを、イエスと言っても、キリストと言っても、聖霊と言っても、神と言ってもかまいません。私たちの内面において「聖なる存在」との交わりが起るとき、私たちは「神の子の具体的な姿」を知り、それを地上に現す者となるのです。
 
では、内面において「聖なる存在」との交わりを持てるようになるには、どうしたらよいのでしょうか。
ヨハネは「御子にこの望みをかけている人は皆、御子が清いように、自分を清めます」と書きました。この言葉には二つの意味があります。

一つは、心の中で御子に会いたいと思う人は、「自分の心を清めなさい」ということです。英語の聖書では「清い」というところにピュアという言葉が使われています。ピュアとは純粋という意味です。混じり物がなく、透明な心、それがピュアな心です。混じり物とは、物質世界に生きていることによって発生するさまざまな想念や情念のことです。唯物主義のような固定的観念、物欲、名誉欲、権勢欲などの欲望、不安、恐れ、怒り、憎しみなどのさまざまな情念、それが混じり物です。そういうものを無くして、人間は、ピュアな心にならなければ神に会うことはできないのです。

もう一つの意味は、この望み自体が私たちの心を清めてくれるという意味です。もし私たちが、心の内で御子に出会うことを何よりも重要なことだと考えるようになったら、自然にそれ以外のことの重要性が下がっていきます。それにより、心の中に雑念の生じることが少なくなるのです。
 
私たちの心は、さまざまな問題に引き裂かれて分裂し、心のあらゆる部分が勝手に動きまわっているので、心を一つに統一する必要がある、と以前お話しました(B26 分裂と統合)。心を一つに統一するには、自分の心の中で最も重要な位置を占めている思いは何か、ということに気づいてください。「心の内面で聖なる存在に会う」ということを「第一の願い」として、絶えず持ち続けてください。
 
心の中にはたくさんの部分があり、一つ一つ、それぞれ独自の働きや役割を持っています。心を統一するためにしなければならないことは、これらのすべての部分に共通の願いを持たせることです。鉄の分子はみんな小さな磁石の性質を持っていますが、ふだんはそれがばらばらの方向を向いているために全体としては磁石の性質が現われません。けれども、そばに別の磁石を持ってくると、その影響を受けて鉄の分子磁石の方向がいっせいに同じ方向を向くようになります。それで全体が磁石の性質を帯びるようになるのです。
 
私たちの心も同じです。心の中で御子に会いたいという望みを実現させるためには、心の中のすべての部分に「御子に会いたい」という望みを浸透させなければなりません。それをするのは、あなたの強烈な意志以外にはありません。この世ですることはたくさんありますが、何をしていても、「御子に会いたい」という意志を持ち続けていることは可能です。それがあなたの心に方向付けを与える強力な磁石の働きをするのです。そして、あなたの心のすべての部分に「御子に会いたい」という願いが浸透したとき、あなたは実際に奇跡を体験することになるでしょう。
2003.10.18 第32回エノクの会

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B31 神に恋をしなさい

霊性の時代の夜明け より【転載】

B31 神に恋をしなさい
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心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。
日本聖書協会 新共同訳聖書 マタイによる福音書22章37節
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神が全知・全能であるとはよく言われることですが、私はそれに「全愛」であるという言葉を加えたいと思います。「全愛」というのは聞いたことのない言葉ですが、「完全な愛」という意味で、私が作った言葉です。

神が全知・全能・全愛であることを徹底的に信じてください。これがあらゆる信仰の基本です。どのような論理であれ、これを疑うような考えはすべて拒否してください。
 
神を信じない人たちがよく使うのは「悪の存在をゆるすような神は、全知・全能でないか、愛がないかのどちらかである」という論理です。これについては後でお話ししますが、このようなまやかしの論理に惑わされずに、神が全知・全能・全愛であることを絶対的に信じてください。
 
まやかしの論理はこう言います。「悪が存在する世界は不完全である。もし神に完全な世界を作る能力がなかったというなら、神は全知・全能ではない。もし、完全な世界を作る能力があるのに、作らなかったというなら、神には愛がない。したがって、神は全知・全能でないか、全愛でないかのどちらかである」。
 
この推論には間違いはありません。神が全知・全能・全愛であれば、神が創ったものはすべて完全であるはずです。もし神が不完全な世界を創ったとしたら、神は全知・全能でないか愛がないかのどちらかです。

ロボットを作る技術者のことを考えてみてください。人間の技術者でさえ、何か作るときにはできるだけ完全なものを作ろうとするのです。これが仕事に対する愛というものです。けれども、人間の技術者は、完全なロボットを作ることができません。人間のつくったロボットは、故障をしたり、間違った動きをしたり、不器用な動作しかできなかったりします。それは、人間の技術者に、智恵や知識や注意力が足りないからです。

けれども、神は完全です。神は全知・全能・全愛です。したがって、神によって創られたものは、すべて完全です。物質世界も、地球も、その上のすべての生き物も、人間も、すべて完全です。
 
けれども、このことは、いま私たちが見ている世界が完全であるということを意味しているのではありません。これを混同しないようにして下さい。「神が創った地球、神が創った世界、神が創った人間・・・」、それが何であれ、神が創ったものであるなら、それはすべて完全であるということです。

神を絶対的に信じるということは、神の被造物が完全であることを絶対的に信じるということです。世界中のすべての人が完全であることを信じてください。あなた自身が完全であることを信じてください。たとえ人がどれほど非道な残虐な姿を表していようとも、あなた自身がどんなに惨めな状態にあろうとも、完全であることを信じてください。
 
「神が創ったものは完全である」ということと、「現実に私たちが見ている世界が不完全である」ということとは、どう折り合いをつけるのでしょうか。そこから出てくる結論は、一つしかありません。「私たちが現実に見ている世界は神が創ったものではない」ということです。

神は不完全なものは創りません。逆にいえば、不完全なものは神によって創られたものではありません。神によって創られたものでないものは、それがどんなに現実的な存在に見えようとも、非現実、非存在であり、幻想に過ぎません。

この「不完全なものはすべて幻想である」ということを理解することが非常に大事なのです。もし私たちが見ている世界が不完全であるなら、それは私たちが、神が創った本当の世界を見ていないということを意味しています。
 
私たちの普通の常識的考え方では、まず、この世が不完全であることを認めます。戦争や災害や犯罪が限りもなく起っている世界を、誰も完全であるとは言いません。それと同時に、常識的考えでは、この不完全な世界が現実であり、実在であることを疑いません。

先ほどのまやかしの論理は、不完全な世界が実在であるという前提から出発したために、神は不完全であるに違いないという結論に到達したのです。この論理の推論は間違っていません。ただ、「不完全な世界が実在である」という出発点が間違っているのです。
 
一方、普通の宗教は、神が完全であるということと不完全な世界が実在であるということを、両方とも真実であると考えます。そのために、途中でさまざまな辻褄合せをしなければならなくなります。「神は完全な人間を創ったが、人間が神の命に背いて堕落した」という物語もその一つです。けれども、簡単に堕落するような人間は完全とはいえません。それでは、神は、すぐ故障するロボットを作っておいて、「こいつが故障したから悪い」と言っている無能なエンジニアのようなものではありませんか。普通の宗教の立場は中途半端なのです。
 
けれども、皆さんは「神が完全である」ということだけを真実の出発点にしてください。その当然の結果として「不完全なものは真実の存在ではない」という結論になります。いま私たちが見ている世界は、真実の存在でないものが真実の存在であるかのように見えているのですから、幻想です。

イエスが「人は神と富とに兼ね仕えることはできない」と言われたのはこの意味です。これは「神を信じること」と「物質世界を信じること」は両立できないという意味なのです。「神が完全であること」つまり「神が全知・全能・全愛であるということ」と、「不完全な世界が実在する」ということは決して両立できないのです。
 
「物質世界が幻想である」というと、私たち人間はみんな麻薬に冒されているのか、と考える人があります。けれども、世界中の人間がみんな麻薬患者になっているわけではありません。なぜなら、物質世界の幻想を見ているのは肉体ではないからです。肉体の脳が狂っているわけではないのです。

物質世界の幻想を見ているのは、霊です。スピリットです。イエスは「神は霊である」といわれましたが、実は、人間も霊なのです。神が創った完全な人間というのは、霊の人間のことです。その霊の人間が幻想を見ています。それは、ちょうど私たち人間が夢を見るようなものです。霊の人間が、物質世界の中の肉体人間になった夢を見ているのです。
 
夢を見ているときには、夢の中の世界が現実に思えます。同じように、肉体人間にとっては、物質世界は現実の世界に思えます。肉体人間は夢の中の存在だからです。けれども、霊の人間にとっては、それは夢なのです。神も、神によって創られた霊の人間も、完全な存在ですが、夢の中では、いくらでも不完全な存在になることができます。これが、私たちの世界が不完全である理由です。
 
では、幻想を捨てるために、夢から覚めるために、私たちは何をすればよいのでしょうか。

幻想を捨てるためには、幻想を幻想であると知り、それを捨てる決意をすることが必要です。けれども、ただ幻想を捨てようと思っても、捨てることはできません。幻想を捨てるためには、本物を求めることが必要なのです。本物が見えるようになれば、自然に幻想は消えていきます。ここに「神を信じる」ことの重要性があります。
 
神を信じるということは、神が創られた世界を信じることであり、神が創られた世界の完全性を信じることです。いま、私たちは毎日のニュースを聞いて、世界が不完全であるという思いをますます強くしています。けれども、これは私たちが、神が創られた世界を見ていないという証拠です。それは、にせものの世界です。本物を求めてください。神が創られた世界の完全性を信じ、その世界を見ようという決心をしてください。
 
あなたの一日の時間の中で、物質世界を信じている時間と神を信じている時間のどちらが長いでしょうか。一週間のうち一日だけ教会に行って一時間ほど神に心を向けますが、それ以外の時はいつも物質世界にばかり心が向いているというのでは、いつまでたっても夢から覚めることはできません。
 
イエスは「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」といわれました。ここに「愛しなさい」と言われているのが重要なのです。「あなたは物質世界と神とどちらを愛しますか」と言われているのです。「どちらが好きですか」と問われているのです。神に恋をしてください。恋をする人が、毎日、毎時間、いつも恋人のことを思いつづけるように、神を思い、神が創られた世界を思ってください。
 
「彼を愛することは正しいことだから愛する」というような恋はありません。私たちが神を愛するのは「正しいことだから」ではありません。神が創られた世界が素晴らしいものだから愛するのです。ただ、神の創造の美しさを信じて追い求めてください。
2003.9.20 第31回エノクの会

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B30 無償の愛

霊性の時代の夜明け より【転載】

B30 無償の愛--------------------------------------------------------------------------------
「見てもらおうとして、人の前で善行をしないように注意しなさい。さもないと、あなたがたの天の父のもとで報いをいただけないことになる。だから、あなたは施しをするときには、偽善者たちが人からほめられようと会堂や街角でするように、自分の前でラッパを吹き鳴らしてはならない。はっきりあなたがたに言っておく。彼らは既に報いを受けている。施しをするときは、右の手のすることを左の手に知らせてはならない。あなたの施しを人目につかせないためである。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。
日本聖書協会 新共同訳聖書 マタイによる福音書6章1-4節
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イエスは「施しをするとき人目につかないようにしなさい」と言われました。いつの世にも、これみよがしに善行をする人たちはいますが、「あなたたちは、そのようなやり方を真似しないようにしなさい」というのがイエスの教えです。

けれども、私は皆さんにこう言いたいと思います。
「自分の善行の結果を、自分で見ようと思わないようにしなさい」。
 
私たちは「愛する」というと、何か相手のためになることをしてあげるという、「目に見える行い」を思い浮かべます。けれども、ほんとうの愛は、相手に「A8 愛のエネルギー」を送ることです。「行い」は、そのときそのときの状況によって、必要なこと、あるいはできる範囲のことををすればよいのです。

「行い」が伴っていなくても、「愛のエネルギー」を送ることには意味があります。けれども、愛のエネルギーが伴わない「愛の行い」はすべて偽善です。行いがあってもなくても、絶えず「愛のエネルギー」を周りの人に送ってあげてください。
 
「愛のエネルギー」を送るためには、自分の心の中を愛のエネルギーで満たしてください。神から「愛のエネルギー」が送られてきて、自分の胸一杯に広がるのを想像してください。それが、胸の中にあふれ、体中にしみわたるのを感じてください。胸の中が熱くなるのを感じてください。それから、それがあなたの体からあふれ出て、必要な人の所へ流れて行くのを想像してください。それで十分です。あなたが感じても感じなくても、愛のエネルギーは神によって相手のところへ運ばれていきます。
 
ただ想像するだけというのは力がないように思うかも知れません。けれども、神の世界、霊の世界というのは純粋の意識だけの世界なのです。そこでは想像することが現実です。ただし、想像するときに、あなたの心のすべてをその想像に集中してください。 「力がない」と私たちが感じるのは、私たちの心が分裂していて、心のごく一部分でしか想像していないからです。他の部分では、違うことを考えていたり、正反対のことを考えていたり、「想像だけしたって無駄だ」と考えていたりしているからです。

イエスは「内部で分裂する国は立ち行かない」といわれました(マタイによる福音書12章25節)。それは、私たちの心の状態を指しているのです。私たちは、いつも心が分裂していて、ばらばらになっています。自分の心の90パーセントは潜在意識あるいは無意識と呼ばれる状態になっていて、自分で自分の心の中を知ることができない状態になっています。表層意識で一生懸命「こうなりますように」と祈っていても、潜在意識の奥のほうでは「そんなことがあるわけはない」と思っていたりするのです。そのために、私たちの祈りも想像も実現しないのです。

もしも私たちの心が完全にひとつに統一されていて、心の100パーセント(意識も無意識も含めた全部)がひとつのことを集中して想像したら、「この山に向かって、『立ち上がって海に飛び込め』と言っても、そのとおりになる」とイエスが言われたように(マルコによる福音書11章23節)、祈り求めることはすべてそのとおりに実現するようになります。
 
イエスは「互いに愛し合いなさい」といわれました。それは、このようにして愛のエネルギーを互いに送りあうようにしなさいということです。けれども、その際に、愛のネルギーが何をするかについて注文をつけないようにしてください。それが「無償の愛」です。
 
無償の愛とは「お返しを求めない」ということです。では、人に愛のエネルギーを送ったとき、「最大のお返し」は何だと思いますか。それは、送った相手が、こちらの思い通りに幸せになってくれることです。自分にとって物質的には何の得にもならないことでも、人の幸せを願って何かをして、人がそのとおりになってくれたら、私たちは自分も幸せを感じることができます。

けれども、あえて私は申し上げます。「ひとに愛のエネルギーを送ってあげたとき、その効果を自分で見ようとしないようにしなさい」。聖書の言い方を真似るならば、「人に施しをするときには、自分の目に見せないようにしなさい」ということです。
 
昔こんな話を読んだことがあります。ある老婦人が人生を終ろうとしていました。その婦人を愛する家族の者たちが集まって、一生懸命にお祈りをしました。婦人はいまにも息を引き取りそうになっていましたが、家族の祈りで目を覚まし、みんなにお礼を言いました。それから、また目を閉じて眠りました。しばらくすると息もかすかになっていきます。家族の者たちがまた一生懸命に祈ると、婦人はまた目を覚まします。そんなことを何回かくりかえしたあと、とうとう目を覚ました老婦人はこういいました。「私が神様のところにもうすぐ着きそうになると、あなたたちが一生懸命呼び戻すので、またここに帰ってきてしまうの。もう祈るのをやめてちょうだい」。そこで家族が祈るのをやめたところ、老婦人はすぐに安らかに息を引き取った、というのです。
 
老婦人のために祈るというのは美しいことです。けれどもそれに付随して、こちらがよいと思う「特定の結果」を要求すると、それは婦人に対してこちらの価値観を押し付けていることになります。「死ぬのはよくない」「生きていて欲しい」というのは、残される者の価値観です。けれども、老婦人の願いは、人生のなすべきことを終えたいま、やすらかに神様の御許へ帰りたい、ということなのです。
 
では、どうすればいいのでしょうか。愛のエネルギーを送るとき、そのエネルギーがどういう結果を生み出すかについて、注文をつけないことです。愛のエネルギーを送るときには、心のの中での次のように言って下さい。「私はあなたにこのエネルギーを贈ります。あなたはもし使いたかったら、このエネルギーを自由に使ってください。これを使って、元気になって、もう一度この世に戻ってくることもできます。けれども、これを、楽にあの世に行くために使ってもいいのです。あなたの好きなように使ってください。」
 
愛というものは、決して、こちらがよいと思う価値観を相手に押し付けることではありません。他人が見ればとんでもないと思うような人生を選択する権利を、すべての人が持っているのです。愛というのは、その自由を相手に対して徹底的に認めることです。そして、相手が選ぶ人生を、できるだけスムーズに、しかも深く、しっかりと生きることができるように、愛のエネルギーでたすけてあげよう、というのがほんとうの愛です。
 
人間の目に見える人生には、さまざまな姿があります。あんな苦しい人生は、何とかして助けてあげたい、と思うのも貴い愛情です。けれども、ほんとうの愛情は、試験にチャレンジする息子から試験問題を取り上げることではありません。試験に合格できるように、問題を乗り越えることができるように、援助するのがほんとうの愛です。人は、高く飛び上がろうとすれば、深く膝をかがめなければなりません。沈むのはよくないといって、かがむのを止めさせたら、いつまでたっても高く飛び上がることはできません。
 
人生というのはプロセスです。目先のひとつの断面だけをみるのでなく、ひとりひとりに固有の人生のプロセスがある、と考えてください。他人には伺い知ることのできないその人だけの深い人生の意味を、その人がしっかりと生きることができるように、一切の紐をつけずに「愛エネルギーを送って」ください。それが無償の愛ということです。
2003.8.23 第30回エノクの会

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B29 無差別の愛

霊性の時代の夜明け より【転載】

B29 無差別の愛
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あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせて下さるからである。自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。
日本聖書協会 新共同訳聖書 マタイによる福音書5章43-48節
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きょうの聖書は前回と同じ箇所です。
前回、神は完全であり、神によって創られた私たち人間も完全であるという話をしました。これは信仰の原点であり、土台であり、基本です。「神は完全であり、全知・全能・全愛である」ということを徹底的に信じてください。そうすれば、その神によって創られた世界や人間は当然完全であるはずである、ということが自然に信じられるようになります。
 
けれども、私たちが実際に経験する世界は、不完全極まりないものです。このギャップは、古くから宗教や哲学の悩みの種でした。けれども、それは単に、私たちが、神が創られた世界を見ていないということを示しているにすぎません。私たちは自分自身についても神が創られたままの姿を見ていません。そのために、私たちは本来の完全な姿を表わすことができないのです。

私たちは、なぜ、神の創造されたままの世界を見ることができないのでしょうか。それは、私たちが世界を見る目、つまり心、がゆがんでいるからです。したがって、心のゆがみを正せば、神の創造した世界がそのままに見えるようになります。これが「悔い改め」ということです。
 
悔い改めというと、いままでが間違っていたという語感がありますが、私たちは間違って心がゆがんでいるわけではありません。なぜなら、私たちも、神から創られた完全な存在だからです。完全な存在が間違うことはありません。では、なぜ私たちの心がゆがんでいるのでしょうか。それは、私たちがわざわざ自分の心をゆがめて、闇の存在する世界を体験することを選んだからです。それは、からだに錘をつけて海底を散歩しようとする人に似ています。その人たちが海底に沈んでいるのは錘をつけているからですが、間違って錘をつけたわけではないのです。
 
私たちは、どのようにして心をゆがめたのでしょうか。それは「善悪の判断」をすることによってです。私たちは、あるものを善、あるものを悪と名づけ、一方を受け入れ、他方を排斥します。悪の存在を認めることによって恐怖が生まれ、恐怖が疑いを生み、疑いが怒りを生みます。これが、私たちの見る世界が汚染されていくプロセスです。創世記のエデンの園の物語で、神は「善悪を知る木の実を食べてはならない」と命じたと伝えられていますが、実際、「善悪を識別すること」が神の創造の世界から離れる出発点だったのです。
 
したがって、神が創造したそのままの世界へ帰る道は「善悪の判断をしない」ということしかありません。これが「無差別の愛」です。私たちは「差別」することによって闇を作り出し、光と闇の交錯する「美しい」世界を体験してきました。けれども、いま、私たちは再び光の世界へ帰りたいと思ってここに集まっています。それならば「差別しない」とはどういうことかを学ばなければなりません。
 
「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせて下さる」とイエスは言われました。これが無差別の愛です。善悪を判断しない愛です。イエスは私たちにも無差別の愛を実践するようにと命じておられます。

けれども、私たちはすぐに「そんなことはできない」と思ってしまいます。それには、二つの原因があります。ひとつは「愛する」ということを誤解しているからです。愛とは何かということについては、B5 神の正義と人の正義、A8 愛のエネルギーなどを読んでください。もうひとつの原因は練習をしないからです。無差別の愛を憶えるのは、水の中で呼吸する方法を憶えるようなものです。練習しなければうまくはなりません。きょうは、無差別の愛の練習をしてみましょう。

目を閉じて、自分のからだに意識を向けてください。あなたは自分のからだをどのように感じているでしょうか。自分のからだは素晴らしいと思っているでしょうか。多くの人が自分のからだと敵対関係にあります。背が低い、顔がよくない、頭が悪い、太りすぎだ、痩せすぎだ、皺が増えた、髪の毛が白くなった・・・病気や障害がなくても、多くの人が自分のからだに不満を持っています。また多くの人が、年を取ることに不安を持っています。癌にかかるかも知れない、寝たきりになるかもしれない、ボケるかも知れない、・・・と怖れています。
 
これはすべて自分のからだに呪いをかけているようなものです。もしこのような思いを毎日持ち続けていたら、やがて、実際にそのようになっていきます。何であれ「持続する思い」というものは祈りであって、いずれ形の世界に現れるようになります。イエスが「あなたの信じるとおりになる」といわれるのはこのことです。したがって、悔い改めることが必要になります。悔い改めとは、心の中にある想念や感情を、現実化しても困らないようなものに取り替えていくことなのです。
 
自分が自分のからだに対してどんな気持ちを抱いているかわかったら、そのことをそのままにしておいて、目を閉じて心の中でそっと「この素晴らしいからだを、心から愛し、受け入れます」と言ってみてください。どこか心の片隅がむずむずしませんでしたか。はじめは何か居心地のわるい気持ちがするかもしれません。心のどこかが抵抗しているかも知れません。心にもないことを言っていると思うかも知れません。その気持ちを味わいながら繰り返してみてください。
 
今度は、そのようなことを言われたからだの気持ちになって、その気持ちを味わってみてください。繰り返し何度も言ってみてください。そのたびに気持ちが揺れ動くのがわかるでしょう。やがて、からだが微妙にリラックスしてくるのを感じることができるかも知れません。
 
注意していただきたいのは、自分のからだのどこかに「よいところがある」と考えて、それをほめるのではないということです。よいところを見つけてほめると、それは「善悪を判断する」というパターンに戻ってしまいます。よいことも悪いことも関係ないのです。ただ無条件に、自分のからだを素晴らしいといって受け入れる、それだけです。それを繰り返し、繰り返し続けてください。毎日何百回も、思い出したらいつでも、自分のからだに話し掛けてください。何度も何度も繰り返していると、居心地の悪い感じが消えていきます。その様子に気づいてください。
 
うまくいけば、やがて、あなたは自分のからだと和解するということがどんなことか、わかるようになってきます。理由のない平和を心の中に感じるようになるかもしれません。からだが微妙に元気になり、生き生きしてくるかも知れません。
 
何も起らなくても、もともとです。これを続けていれば、すくなくとも、善悪を判断しないということがどんなことかわかってきます。ありのままに受け入れるということがどんなことかわかるようになってきます。これが他人だったら、あんな人をありのままに受け入れるなんて絶対にしたくないと思うこともあるでしょう。けれども自分のからだなら受け入れて損することはありません。
 
このような練習を続けることで、もし「無差別の愛」ということにすこし慣れてきたと思えるようになったら、たとえば、自分がいちばん嫌っている人などを思い浮かべて、同じことをしてください。別に本人の前に出て、好きでもないのに無理をして、「あなたを愛しています」などという必要はありません。ただ、心の中だけで、すればいいのです。心の中で「あなたはすばらしい」と言うたびに、胸がうずいたり、脇腹が痙攣したりするでしょう。そのいやな感じをしっかり受け止めて味わってください。そのような感じを持つのが良くないといっているのではありません。人を嫌っているというのは、そういう感じがするものなのです。その感じを正直に味わいながら、何度も何度も繰り返してください。やがて、その感じが癒されてくるのが、自分でわかるようになります。そして、いつかは、その人と再び会ったとき、自分が以前とは違って感じることに気づくでしょう。
 
私たちは、この物質世界において、善悪、好悪、損得・・・など、さまざまな価値判断に基づいて、人や出来事を選別し、あるものを受け入れ、あるものを拒否しようとします。それが、私たちを物質世界につなぎとめているのです。それは、海底散歩をする人がつける錘のようなものです。「無差別の愛」はその錘を解放します。そうしたら、錘をはずした人のからだが自動的に浮き上がるように、私たちは神の国に自動的に引き入れられていきます。「あなた方の天の父の子となるためである」と言われるイエスの言葉に注目してください。「天の父の子となる」ということは、私たちが霊性を取り戻すということなのです。 
2003.7.12 第29回エノクの会

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B28 完全でありなさい

霊性の時代の夜明け より【転載】

B28 完全でありなさい
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「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせて下さるからである。自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか。だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。
日本聖書協会 新共同訳聖書 マタイによる福音書5章43-48節
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この聖句もよく知られた個所です。「敵を愛しなさい」という言葉は、今日ではクリスチャンでなくても知っています。けれども、知っているだけで誰もそのようにしようとはしません。しようとしてもできません。できないのは、そもそも「敵を愛する」という言葉自体が自己矛盾だからです。敵というのは愛していないもののことをいうのです。愛したらその瞬間に「敵」は消えてなくなります。「敵」という概念が頭の中に残っているあいだは、愛してはいないのです。

私たちがこの聖書の個所を道徳的な戒めとか正しい行いの勧めとして聞いているあいだは、私たちは、イエスの言葉に従うことはおろか、理解することさえできないでしょう。

イエスの言葉の真意を理解するためには、この聖句を終わりのほうから読んでください。まず最初に「あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」というところに目を留めてください。
 
「あなたがたも完全な者となりなさい」といわれて、怖気づいている人はいませんか。「そんなことはとてもできない」と思っている人はいませんか。「完全な者になれると思うのは傲慢だ」と思う人はありませんか。

そういう人は、この聖句を取引の一種だと考えています。私たちが自分の力で完全なものになるのだと考えています。私たちが「よいこと」をすれば、完全な者になれるのだと考えています。けれども、何度もお話しているように、神は私たちと取引をすることはありません。神は私たちがよいことをしたからといって褒美をくれることもないし、悪いことをしたからといって罰を下すこともありません。神は、私たちの行いに無関係に、ご自分のしたいことをなさるのです。
 
ちょっと考えてみてください。神は人間を作るときに、どんな人間をつくりたいと思われたでしょうか。不完全な人間をつくりたいと思われたでしょうか。それとも、完全な人間を作りたいと思われたでしょうか。人間でさえ、何かを作るときには、できるだけ完全なものを作りたいと思います。神も同じです。神は完全な人間を作ろうと思い、そして、そのとおりに完全な人間を作りました。人間は完全なものを作ろうと思ってもつくれませんが、神は完全ですから、人間を作るときにも完全な仕事をしました。

神は完全な人間をつくりました。だから私たちは完全です。人間は今すでに完全なのです。私たちがよいことをしたら完全な者になるのではありません。神が私たちを完全な者につくったから、私たちは完全なのです。
 
けれども、間違わないでください。いまこの地上にある私たちの姿が完全だというのではありません。もしそうなら、イエスが地上に降りてこられる必要もなく、「完全なものとなりなさい」と教える必要もなかったでしょう。完全なのは「天にある私たち」の姿です。「天にある私たち」とは私たちの元型です。地上にある私たちの出て来たところであり、あるべき姿です。それは完全です。なぜなら、それをつくったのは神ご自身だからです。

けれども、この地上にどんな姿をあらわすかは、私たち自身にまかされています。私たちは、完全な人間の姿を地上に現すこともできれば、不完全な姿を現すこともできます。それは、神が私たちに美しい服をつくって下さったようなものです。私たちはそれを着て町を歩くこともできますが、それは大切にしまっておいて、代わりに自分でつくったぼろを着て泥んこ遊びをすることもできます。「泥んこ遊びが好きならそれでもいいが、もし泥んこ遊びにあきたなら、身体を洗って私があげた服を着なさい」と神はいわれるのです。それがイエスの言葉の真意なのです。 「天の父が完全であるように、天のあなたたちも完全である。だから、その天にあるあなたたちの完全さを、この地上にもあらわしなさい」とイエスは言われているのです。
 
地上に「完全」をあらわすとはどういうことでしょうか。それが、聖句の前半の文章に書いてあります。私たちは、世の中の人たちを、これは味方、これは敵、と分類し、敵を拒絶し排除しようとします。けれどもイエスは言われます。「そのようなことは異邦人や徴税人でもやっているではないか」と。

異邦人とは、文字通りには外国人ということですが、聖書で異邦人というときは、神を知らない人たち、この世だけがすべてだと考えている人たち、現代的にいえば無神論者や唯物論者のことです。徴税人という言葉は、少し注釈が要ります。当時、ユダヤはローマに占領されていました。そこで、税金を取り立てるのも、ローマ軍であり、取り立てた税金もローマに持っていかれました。その税金の取立てに従事したユダヤ人が「徴税人」と呼ばれる人たちです。当然この人たちは、占領軍に協力するものとして、ユダヤ人社会からは強く非難されました。裏切り者、売国奴と見られていました。

そういう、ユダヤ人から強く非難されていた人たちを例にあげて、イエスはこう言われます。「味方だけを愛し、敵を憎むのは、あなた達が非難するそういう人たちでもやっていることではないか。もし、あなたたちが、神を信じ、神に信頼しているというならば、神が悪人にも善人にも日光を与え雨を降らせるように、わけへだてなく愛を振りまきなさい」。それが、完全を地上にあらわす、ということなのです。
 
「天の父の子となるためである」という言葉は、そのようなことをしたら、ご褒美に神の子にしてあげようという意味ではありません。そのようなことをしているとき、あなたは神の子として振舞っている、という意味です。それが神の子らしい振る舞いである、という意味です。
 
普通キリスト教で神の子といえば、イエスのことを指しています。けれども、ここの聖句には「あなたがたの天の父」いう言葉が二度出てきます。もともと「父」というのは「子」を想定した言葉です。もし神が私たちの父と呼ばれるのなら、私たちが神の子であるのは明らかです。「蛙の子は蛙」といわれるように、神の子は神です。「天にある私たち」すなわち「私たちの元型」というのは、実は神ご自身なのです。それは創世記に「神は自分に似せて人間を作られた」と書かれているとおりです。だからイエスは言われるのです。「あなたがたの天の父が完全であるように、あなたがたも完全でありなさい」と。それは「あなたたちの元型である神は完全なのだから、地上におけるあなたたちも完全な姿を表わし得るはずだ」ということです。
 
以前にもお話ししましたが、この世の常識は、悪に対して備えをし、悪から身を守り、悪を排除し、悪を正していくべきである、と教えます。これは悪が存在しつづけることを前提にした考え方です。けれども、神の論理は違います。世の中に愛をあふれさせれば、悪は根本から消えてなくなる、というのが神の論理です。悪は本来非存在なのです。なぜなら悪とは、人々の心に愛が足りないという状態に過ぎないからです。光がないところに闇があるように、愛がなければ恐怖が生まれます。恐怖は、怒りや憎しみを生み、不信や猜疑心を生み、とどまるところをしらない悪循環に落ち込んでいきます。これが人類が遊んでいる泥んこ遊びです。私たちの心に愛があふれるならば、敵も味方もなくなり、私たちの心から恐怖が消えます。
 
私たちは完全です。完全なものは永遠です。私たちが死んだり消滅したりすることはありません。あらゆる所有物を奪われ、肉体も生命も失ったとしても、なお私たちは存在しつづけ、生きつづけます。怖れるものは何もないとほんとうにわかったときに、私たちはほんとうに光の子になるのです。
2003.6.21 第28回エノクの会

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B27 犯人探し

霊性の時代の夜明け より【転載】

B27 犯人探し
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さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現われるためである。」
日本聖書協会 新共同訳聖書 ヨハネによる福音書9章1―3節
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きょうの聖句には、これまでお話した症候群とはちょっと違いますが、私たちのエゴの典型的な思考パタンの一つと、それに対するイエスの答えが凝縮されています。

通りがかりに出会った目の見えない人を指して弟子たちはイエスに尋ねました。
「この人が目が見えないのは、親の罪ですか、本人の罪ですか」
 
ここには、二つの判断が隠されています。
一つは「目が見えないということは悪いことである」という価値判断です。私たちは、自分が体験すること、他人が体験すること、世の中の出来事、あらゆるものを価値判断します。あれはよいこと、これは悪いこと、と分類します。理性で考える以前に、感情的な反応として、ほとんど瞬間的にそういう判断を下しています。多くの場合、「悪いこと」というのは必ずしも道徳的な善悪の問題ではなく、自分にとって不都合なことというくらいの意味です。確かに目が見えないということは、その人にとってはたいへんな苦痛に違いありません。そのようなものは「悪いこと」あるいは「有り難くない」ことであるわけです。
 
第二の判断は、「悪いことが起るには原因があるはずだ」という判断です。これも、私たちはほとんど無意識のうちに行います。そして、私たちは悪いことの原因を探します。これを私は「犯人探し」と言います。よいことにも原因があるはずですが、私たちはよいことの原因探しはあまりしません。「ああよかった」とか「ラッキー」といって終わりです。けれども、悪いことについては、執拗に原因を追求したがります。
 
弟子たちは「この人の目が悪いのは、親の罪か、本人の罪か」とイエスに尋ねました。当時のユダヤには「親の罪が子にたたる」というような因果応報の思想があったのでしょう。現代の私たちは、そのような考えはおかしいと思うかも知れません。現代人は「親の罪か、本人の罪か」とは言いません。「遺伝ですか、病気ですか」と尋ねます。「親の罪か、本人の罪か」というのとあまり違いませんね。

けれども、どこに原因を探すかは問題ではありません。「原因」を探すということが問題なのです。
 
弟子たちの質問に対して、イエスはこう答えられました。
「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現われるためである。」

イエスは「誰が犯人か」という問題に対して答えることを拒否されました。これは「犯人はいない」という意味ではありません。悪いことが自然に生まれるわけではありません。どこかに原因はあるのです。けれども「そこに目を留めていては何の解決にもならない、真の解決は犯人探しからは到達できない」ということが、イエスが伝えようとされたことなのです。
 
では、どうすれば解決が得られるのか、それが「神の業がこの人に現われるためである」という言葉に示されています。これは、神の業が現われるために、神がわざわざこの人を盲人にしたということではありません。「どのような状況においても、ただ神の業にのみ目を向けなさい」というのがイエスの答えなのです。
 
原因を探り、原因を排除すれば、悪い出来事は起らなくなる、というのが私たちの常識的な論理です。それは間違いではありません。けれどもそれは目に見える世界だけの因果関係です。物事の真の因果関係の一部分に過ぎません。
 
真の因果関係は、目に見える因果関係と目に見えない因果関係の両方からできています。けれども、私たちは普通、目に見える因果関係のほうしか気づいていません。実は、もっと深いところに、目に見えない因果関係があるのです。それは目に見える因果関係より先に働きます。
 
目に見えない因果関係は、この世界に「何を」作り出すかを決定します。目に見える因果関係は、それを「どのようにして実現するか」を決定します。したがって、目に見える因果関係を調べて原因を取り除いたとしても、目に見えない因果関係が決めた「何を」というのが変わらなかったら、それはいずれ別の道を通って実現することになります。真の解決に至るには、この「何を」という部分を変えるほかはないのです。
 
イエスの言葉はこの「何を」という部分に「神の業」を置きなさい、と教えています。神の業とは、イエスがなされた奇跡を指すのではありません。奇跡は、神の業が異常な速さで実現したものです。けれども、神の業は、実現の速さではなく、実現したものそのものを指すのです。「目が見える」ということが神の業なのです。イエスは、神の業が現れていなかったところに、神の業を現したのです。
 
神の業とはどんなものでしょうか。それは、平和や喜びや健康などです。すべてのものが完全であり、愛と慈しみによってたがいに支えあい、生命の多様な美しさを表現する世界です。それが神の業です。イエスの言葉は、あらゆる場面を神の業を現わすための場だと考えなさい、ということを教えているのです。
 
犯人探しをするとき、あなたの目は「悪いもの」のほうを向いています。そうすると、あなたの潜在意識は、それをあなたにとって大切なものだと考え、これから実現する「何を」という部分におきます。このため、あなたは一つの原因を取り除くかもしれないけれども、次々に同じような出来事に悩まされつづけることになります。
 
あなたの目を絶えず「神の業」に向けてください。いま住んでいる場所が神の国であり、そこで光の子として振舞っている自分を絶えず想像してください。そうすれば、潜在意識がそれを「何を」という部分におき、やがてあなた自身とあなたの身のまわりが変わりはじめます。私たちはイエスのように瞬間的に神の業を実現させることはできないかもしれませんが、時間的速さが違うだけで、イエスがされたことと私たちがすることには、何の違いもないのです。
2003.5.17 第27回エノクの会

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生きる力 ゲンマイ
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2016年1月1日 新年を迎え、日本に生まれた幸せをかみしめ、日本人で有る事の誇りを持ち、 生きる喜びを持ち続けたいと願いました。
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2011・2012この凄まじい年を生きている。幻想の世界が終り2013より今現在考えの及ばない 世界に入ると云われている。*私達の力がどれ程強いか、自己主権を持った者であり自由であるそれが現実です。意識が自由になって初めてそれが外に現れると。本当の自分を思い出す時が来た(ジョージ・カヴァシラス)