【日本の真相!】 抗がん剤で殺されている日本人

なわのつぶや記より【転載】
14・3・25な 
http://www.h2.dion.ne.jp/~apo.2012/funase-shunsuke.html

 PART 1  
抗がん剤で殺されている日本人

 「猛毒抗がん剤」ではがんを治せない

  2005年のことだ。私は抗がん剤を告発する著書の取材で、忘れられないほどの衝撃を受けた。厚生労働省(電話03-5253-1111)に電話取材したときのことだ。
  「抗がん剤って、がんを治せるのですか?」
  電話口に出たK技官(あえて実名は秘す)は、私の質問にこう答えた。
  「抗がん剤ががんを治せないのは周知の事実です」
  私はあまりにも驚いて、一瞬、言葉を失った。
  「抗がん剤は毒物だとも、私は聞いたのですが?」
  「大変な猛毒物質です」。これも、実にあっさりと答えた。私は絶句しながらも、「がんを治せないのに、そんな猛毒物質をがん患者に打っているのですか?」
  「そのとおりです」
  「猛毒だったら、患者さんは死んじゃうじゃないですか?」
  するとK技官は、少し声を落としてこう答えた。
  「そういう方が大勢いらっしゃるんですよね……」
  これではもはや治療ではない。たんなる“毒殺”じゃないか! 気を取りなおして、私はさらに聞いた。「抗がん剤には発がん性があるとか?」
  「大変な発がん物質です」と、K技官はきっぱり言い切った。
  「ええっ、がん患者に強烈な発がん物質を打っているの! それでは、新しいがんが発生してしまうのでは?」
  「そういう方が大勢いらっしゃる……」
  抗がん剤担当のK技官が、あまりに平然と答えるのに驚愕した。“かれら”にとっては、以上の事実は、当たり前のことなのだ。
  ここまで読んだ読者は、息が止まるほど驚いたにちがいない。
  「そのような猛毒を、なぜ衰弱したがん患者に打つのだ!」
  私は取材というより怒りの声で怒鳴りつけた。さらに、「そんな猛毒が、なんでクスリに化けるのだ!」と問いただした。
  すると、K技官の説明では「抗がん剤を投与すると、10人に1人くらいに腫瘍縮小がみられるんです」という。それを“効いた”と判断して医薬品(抗がん剤)認可するのだという。
  10人のうち残りの9人のがん腫瘍はピクリとも変化しない。それでも「効能あり」とする、わが国の薬の認可制に唖然とする。悪辣なペテンというしかない。それも、観察期間は投与後わずか「4週間以内」だという。
  「アンタの寿命は4週間か!」。私は思わず怒鳴りつけていた。

  「抗がん剤は無力」というデヴュタ証言

  実は、抗がん剤が有害無益であることは、海外ではとっくの昔に常識となっている。
  1958年、米国立がん研究所(NCI)のデヴュタ所長が、米議会でこんな衝撃的な証言をした。「抗がん剤による化学療法は無力だ」というショッキングな内容だ。デヴュタ所長の証言はこうだ。
  「抗がん剤を投与すると、一部の患者には腫瘍縮小がみられる。しかし、がん細胞は自らの遺伝子を変化させ、たちまち抗がん剤の毒性に耐性を獲得してしまう。だから抗がん剤はがん細胞に対してまったく効力を失う。がん患者はただ、抗がん剤の毒性をこうむるのみだ。私は深く絶望している」
  これは、害虫が農薬に対して耐性を獲得する現象とまったく同じだ。デヴュタ所長は、がん細胞が耐性獲得する遺伝子を「アンチ・ドラッグ・ジーンズ」(ADG:反抗がん剤遺伝子)と命名している。
  NCIはアメリカ政府の最も権威のあるがん研究機関だ。その最高責任者が「抗がん剤は無力だ」と、議会という公の場で認めたのだ。まさに衝撃の大ニュースである。しかし……、アメリカのマスメディアも、日本のメディアも、完璧なまでにこの重大証言を黙殺した。その背後には、超巨大スポンサーである製薬会社や医療利権の圧力があることはいうまでもない。
  日本では、がん学会までもが箝口令を敷いた。だから日本のがん専門医ですら、このデヴュタ証言やADGの存在を知る者は極めて少ない。

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瞑想のすすめ

なわのつぶや記必読書 より【転載】
http://www.h2.dion.ne.jp/~apo.2012/bookstand-magazine036.html

瞑想のすすめ
永井 均 (哲学者・日本大学教授)
日本経済新聞  2013年2月10日(日)朝刊「文化」欄

  半年ほど前から瞑想修行を始めた。座禅から入ったのだが、座禅は退屈である。座禅とは、手足を何もできないように組んで、何もしない(そしてできる限り何も考えない)修行のことなのだから、当然のことではあるのだが。そのうえ、毎日やってみても何の効果も実感できない。そんなことを言ったら、効果なんかを求めること自体が禅の本質に反する、と言われそうだ。そういう世俗的価値を脱することこそが禅の本質なのだ、と。
                      △ △ △
  今やっているのは、見かけは座禅とそっくりだが中身はまったく違うヴィパッサナー瞑想といわれるもの。ヴィパッサナーとは「明らかに見る」という意味のパーリ語で、原始仏教の経典に拠るものなのでこちらの方が仏陀の瞑想法に近いとみいわれる。わかりやすい典拠を一つ挙げれば、岩波文庫の『ブッダのことば』(中村元訳)の中で、仏陀は、学生アジタの「煩悩の流れをせき止めるものは何か」という問いに、それは「気をつけることである」と答えている。随分つまらない答えだなと思われるかもしれないが、中村訳で「気をつける」と訳されているのは「気づく」「自覚する」という意味のパーリ語の「サティ」で、実はこれこそがヴィパッサナー瞑想の核心なのである。
  やり方は簡単である。まずは座禅の格好で座り、呼吸に意識を集中する。座禅と違うところは、次々と浮かんでくる想念を単なる夾雑物と見なさないで、いちいち気づいて明らかに見ていくところである。呼吸に集中するのは、そうするための手段にすぎない。
  重要なことは、浮かんでくる想念と一体化して、その立場に立って世界を見てしまわずに、逆に、客観的視点に立って、その想念を一つの出来事として見ることである。感覚の場合なら、「鼻がかゆい」と捉えずに「そこにかゆみがある」と捉える。同僚の誰かの姿が思い浮かび、「あの野郎~しやがって、という思いが生じた」と見る。客観的視点に立てれば、それをたとえば「嫉妬」と本質洞察することもできる。嫉妬している視点に没入してしまえば「嫉妬している」という本質は決して見えないが、客観視できればその本質を見ることも可能となるからである。(だが、次の段階では、この本質洞察それ自体もまた一つの出来事として見ることができなければならない)
                      △ △ △
  ちょっと哲学的用語を使わせてもらえば、心の状態には「志向性」と呼ばれる働きがあって、これが働くと思ったことは客観的世界に届いてしまう。世界の客観的事実として「あの野郎」が何か酷いことをしたことになってしまうわけである。すると、作られたその「事実」に基づいて二次的な感情も湧き起こり、さらに行動に移されもする。その観点からの世界の見え方が次々と自動的に膨らんでいってしまうわけである。
  志向性は言語の働きなのだが、ちょっと内観してみればすぐに分かるように、言語を持つわれわれは、黙っているときでも頭の中では言葉を喋り続け、想念を流し続けている。ヴィパッサナー瞑想の標的はまさにこれなのである。そうした想念の存在が気づかれ、客観的観点から明らかに見られると、想念の持つ志向性は奪われ、それが連鎖的に膨らんでいくことも、それに基づいた二次的な感情が起こって行動に移されることも、止められる。志向性が遮断されれば、心の状態は心の中で現に起こっている単なる出来事として、ただそれだけのものとなるからである。
  この世のあらゆる悩み苦しみは、われわれがつねに頭の中で流し続けている想念(の持つ志向性)が作り出しているものなので、それらが生まれる瞬間を捉えて、それを単なる出来事として見ることができれば、われわれはあらゆる苦悩から逃れることができることになる。過去に届く後悔や未来に届く心配も、瞬間的にその届かせる力を奪われてしまうことになる。想念が膨らんで力を持ってしまう前に気づくことが重要なので、気づきは早ければ早いほどよい。だから、ヴィパッサナー瞑想では退屈している暇はない。
                      △ △ △
  そしてヴィパッサナー瞑想は、座禅と違って、座っているときだけでなく一日中いつでもできる。通勤電車の中でも、歩きながらでも、食事をしながらでも、もし終日これをを絶やさないことができたなら、あなたはもう仏陀(=目覚めた人)なのである! まあ、そこまでは行かなくとも、一日数十分づつ半年ほどやってみただけの私にさえ、明らかな効果が実感できるのだ。
  たとえば私は今朝、東京駅でちょっと急いでいたのでエスカレーターの右側を歩いて上がろうとしたところ、私の前の若い男が、右側に乗ったくせに妙にのろのろと歩く。私はむっと来て「こっち側に乗ったのならもっと速く歩けよ」と思った。その瞬間、「怒り」「焦る気持ち」…というサティが自動的に入って、その気持ちが対象化され一つの出来事となって、しゅわっと消えたのである。以前なら無自覚に没入してしまったであろう感情の生起に、瞬時に気づくことができたわけである。まあ、いつもこんなに上手くいくわけではないが、この程度の効果があることは確かである。
  座禅が煩悩まみれのこの世の生活から離れたただ在るだけの世界に人を連れ戻すのに対して、ヴィパッサナー瞑想は煩悩まみれのこの世の生活から離れたただ在るだけの世界にこの世の生活を変える。それは間違いなく心の平安をもたらすだろうが、真の幸福をもたらすかといえば、それはまた別の、もっと大きな問題であるが……。

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UFO母船同乗見聞記 ・ 宇宙からの警告  ケルビン・ロウ 著 1990年刊 

なわのつぶや記 より【転載】

UFO母船同乗見聞記
宇宙からの警告
ケルビン・ロウ 著  韮澤潤一郎 監修  梶野修平 訳  たま出版  1990年刊
[ダイジェスト版はここをクリック]
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  この本の初版は1987年に出版されています。翻訳される前の原本はそれ以前にアメリカで話題になったということですから、今から20年以上も前に書かれたものです。それにしては、今日の世界の状況を非常に的確に分析しているのに驚きます。
  著者のケルビン・ロウは、UFOに同乗した先輩格とも言えるジョージ・アダムスキー氏について「惑星からの訪問者が実在することを確信させてくれた」として、前書きで謝意を述べています。私はまだアダムスキー氏については「?」と思う部分もあるのですが、この本の内容については大変信頼度の高いものだと思っています。ぜひ、じっくりお目通しください。ダイジェスト版は1990年にワープロ入力していたものを、当サイト立ち上げと同時にアップしたものです。                   (なわ・ふみひと)
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 本書は1956年までに筆者が体験したコンタクトに基づく。

●今や人類は疑いようもなく、「苦難の時代」――幾度となく著述の対象となり、はるか昔より予言されてきたハルマゲドン(世界終末時における善と悪の最後の大決戦)の時代――に足を踏み入れたのである。
 現在われわれは「ハルマゲドンの闘い」という最後の恐るべき戦闘に先立つ不穏な状況に直面しつつある。こうした最終局面の期間中は反キリストが優位を占め、大きな変動が地上にいくつも生じ、予言どおり人口の半分かそれ以上が滅びるかもしれない。義なる者のみが立つ、すなわち「光」の中にいる者だけが生きのびることになるだろう。

 必要な宇宙空間の理解
●空間の次元は1つ――伸展――だけであるが、この伸展はどこまでも無限であり、その中にいくつも次元を持ち、それらが互いに浸透している。これらの異なる次元界は上下に重なった層ではなく、振動のさまざまなオクターブであり、各次元界を分かつのはオクターブの違いだけで、すべての次元界が空間のあらゆる地点で互いに浸透し合っているのだ。次元界とは、ある種の場所ではなく存在の状態である。

●空間の同一地点を同時に2つ以上の物質的なものが占めることは考えにくいかもしれない。物理の学生なら、空間の任意の地点が光の振動も、ガスや熱も、電気や磁気も、その他のより繊細なエネルギーをも同時に含むことができることを知っている。
 太陽光線にはあらゆる色が含まれており、各色に分離することができる。光はガラスを通過するが、光とガラスの双方が同じ空間を占め、振動速度の違いで区別されているものの、お互いに影響を及ぼすわけではない。
 空間は、目に見えないがエネルギーの波動と、帯電した“ちり”状の粒子で満たされている。

●空間を満たすエーテルの存在は常に論争のまとであったが、その本質についてはほとんど理解されずにいる。エーテルを構成する基本物質は“宇宙のちり”であり、電子を初めあらゆる物質がこの“ちり”から作られている。
 エネルギーと光は不可分の存在である。光は太陽から高速の粒子として放出され、全空間を流れると言ってよい。波動の形というより、むしろ粒子の形で伝播されてくる。

●この宇宙には1つの巨大な中心部があり、その周囲をすべての星雲と太陽系が回っており、ここから宇宙を活気づけ、生気に溢れさせる力とエネルギーが放射されている。個々の太陽系は「偉大な宇宙体(コズミック・ボディ)」である宇宙の1原子に過ぎないが、これらの微細な原子の1つひとつに「聖なる意識」である神が具体的な形で住んでいる。

 宇宙から見た地軸の揺れ
●人類は1つの惑星がバランスを維持する上でのかぎであり、経路なのである。われわれの住む地球という惑星のこのアンバランス状態は、すべての人間がそれをもどす努力をすべき重要課題である。地球の地軸と軌道に関するバランスの確立を促進するためには、一人ひとりの人間が自身の性格に内在する極性のバランスをとり、意識の高揚に努めなければならない。

●人類は自分たちの想念振動から、低い周波数の振動を取り除くよう努めるべきである。そのためには、権力や支配や欲望への願望を、秩序と協調と建設への願望に置き換え、現在あらゆる行動に見られる否定的思考を、毎日の生活から除かなければならない。

●人類は自分たちの未来から目を背けてはならず、現在の自分たちが設定した原因の結果を、個人としてだけでなく集団として迎えなければならない。

 人類は惑星間を生まれ変わる
●1955年に、宇宙の友人たちは私にこう教えてくれた。地球は1つの周期の変わり目を迎えようとしている。数々の危機が地球を襲い、多くの災害がもたらす影響は地球のあらゆる場所と住民に及ぶことであろう――と。

●1956年の5月は、長く待ち望まれた“物質的地球の第七周期”の始まりを示すものであった。そしてこの新たな周期の間に、人類はキリストの力と御国を目の当たりにするのだ。とはいえ、まずその前に人類は、もろもろの悪事が一時的に増え続ける時期を経験しなければならない。

●ある文明の住民が、彼らなりに進歩の最頂点に達した時、自分たちが調和するバイブレーションをもつ、一層進化した惑星に生まれ変わっていった。その人々の後釜であるかのように、より進化の度が低い惑星から意識の波が押し寄せてきた。
 つまり、この地球のバイブレーションに調和した人々、再びあがないのはしごを一段ずつ昇らなければならない人々の魂が、生まれ変わってきたのである。
 そもそも魂にはそれぞれ固有の振動が備わり、自分と調和する振動周波数に磁石のように引きつけられるのだ。地球のバイブレーションも、より高い周波数へと振動を増しながら、霊的状態に向けて進化しているので、より高度な意識を持つ魂がそれにひかれて地球に生まれ変わりつつある。

●神が創造した宇宙の究極の目的は、絶えることなき永遠の進歩である。身体から身体へ、惑星から惑星へと進化転生してゆく過程にあって、われわれは人生という学校の学年から学年へ進級し、より高度な表出(あらわれ)と奉仕の段階へ霊的に向上してゆくのだ。そして自らの決断によって何回も失敗し、同じ学年を再び履修するはめとなる。めいめいが、幾多の前世で達成した進歩を今生でも手短に反復し、ある時点で卒業すると、今度は新たな進歩を身につける苦しい過程が始まるのである。

進化は物質を霊化させる
●多くの人がイエスという人名とキリストという用語を混同している。キリストとは、「啓発されたもの」、「意識が啓発された状態」を意味する。キリストがあなたに再臨するというのも、人間もしくは神の子イエスが来られるのではなく、あなたが自分のなかの“聖なる存在”をはっきり実感するようにと“キリスト意識”が訪れることである。

●今や「新たな時代」、人類の新たな夜明けが始まっており、この新たな時代が終わる前に、受肉の法則も解明されるであろう。太初の黄金時代に人類は死の味を知らなかった。だから最後の最後、「宇宙の周期」が成就される直前にも、人類はもはや昔から認められてきた意味での死を味わうことはなくなるに違いない。
 そのときの魂は肉体の束縛に打ち勝っているだろうが、それは何もわれわれが死ぬという意味ではなく、物質的肉体が霊体になっているのだ。なぜなら、進化は物質を完全に霊化させる傾向を持つからである。否定的で不純な想念はすべて取り残され、あらゆる無秩序は洗い清められ、性質の劣ったものは形態や性質を一変するに違いない。

●「人間の意識を通じ、惑星の振動周波数が霊的により高度な状態へ増幅されるのです。人間は“聖なる知性としての神”が現れるための経路にほかなりません」

 人間の精神波が地球を支配している
●地球のバイブレーションが急速に高い周波数へと移行しているのに地球人のふるまいがあまりにだらしないため地球のバランスがくずれている。
  もし、大衆が全体としてその気になれば、多くの災難が防げよう。なぜなら惑星は、その住民によってのみ設定される周波数のもとで機能するからである。彼らは事の成り行きを変えられるし、ハルマゲドンという最終局面を防ぐことさえできるはずなのだ。とはいえ、人々が自分たちのバイブレーションを、地球の周波数が軌道の周波数と調和する段階まで高めない限り、異常な容易ならぬ数々の災難と大量死はまぬがれないであろう。

●また宇宙の友人たちはこうも予見している。
 地球の住民が信仰と名がつけば何にでも飛びついたり、困難や絶望や破滅から守ってもらえそうな援助には相手構わずしがみつく時が訪れるが、それは、自分たちを取り巻く破壊力のために、いやでも造物主をより強く求めざるを得なくなるからだ。そして、そうするうちに結局は、自分たちの内面に住まう「神」以外に頼るべき避難所がないことを知るのだ、というのである。

 地球に放たれた「死の法則」と極移動
●われわれは今起こりつつある現実を直視しなくてはならない。人類が今のような世界状況のなかにいるのは「聖なる法則」と調和していないからである。今日の混乱を生み出したのは、人類の強欲や利己主義や偏見や悪意や不信や攻撃性に他ならない。人類は過去に一定の原因を作ってしまい、今となってその結果に出会うはめになったが、それは法則によるものなのである。
 この「原因と結果の法則」は、これまでに人間が作ったためしはなく、それでいて認めようと認めまいと人間は皆この法則の下で生き、かつ存在しているのだ。この法則はふつう「蒔いた種は刈らねばならぬ」と言われてきた。これらの原因が積み重なって、われわれが今日直面する結果となったのである。

●自分たちは周囲から忍び寄るさまざまな誤った習慣の結果に直面しているのだということを理解することが、人類の繁栄と未来にとって絶対に重要である。自然の暴威による多くの災害や説明できない奇妙な出来事や、病気の流行などをわざわざ数え上げるまでもないだろう。

●最後に、と言っても恐らくこれを最初にあげるべきだろうが、人類は、われわれに真相を絶対に隠そうとしているある破壊集団の支配力に直面している。この集団のメンバーは、実に強力な有力者たちであり、専ら利己的な目的で世界各国の政府を実際に支配しているが、自分たちよりはるかに強い力が存在することを知られるのを恐れている。各国の指導者は、ただの「看板」と道具に過ぎない。

●そして、いよいよ最終段階で人類は、地球の極移動に直面することになる。この現象は、他の惑星では人命を失わずに経験される自然な出来事であるが、地球では人口の半数がこの大規模な大掃除的出来事で一掃されるものと推定される。なぜなら集団意識が、それ自体の「生の躍動」のために決められた周期的進歩に、ついていけなかったからだ。地球の姉妹惑星に住む宇宙の友人たちは、すでに基礎調査をすませ、特定の計画をスタートさせていて、それらの計画は極移動にそなえ着々と実施されつつある。人類が生き残れるかどうかは、宇宙の友人たちやその援助をうけている少数の地球人科学者がタイミングのよい警告を発するとき、人類がそれをどれだけ受け入れるかで、ほとんど決まってしまうだろう。

●もし人類が習慣を変え、自分自身と大自然を知ることを学び、その知識を賢明に用いるならば、ハルマゲドンの最後の大決戦は回避されるだろう。だが悲しむべきことに、あなた方のお考えより事態は手遅れに近い。集団意識に明確な変化がおき、個人の人生観と頭と心に一つの変化が起きるために残された時間は、ごくわずかである。

●この変化がある段階に達すると地球地軸が移動し、現在の北極と南極の位置が変わることになる。巨大地震が起こり、地球のあちこちに隆起や沈下が見られるであろう。広大な大陸が海面に没する時は、他の大陸が再び現れ、惑星全体の平衡が保たれる。そしてこのあとで次元の変化が生じ、人類は神の天地創造について新しい概念を得ることになる。

 UFO飛来の目的
●地球の姉妹惑星の住民である宇宙の友人たちは、特異現象を演出しに地球にやって来るのではない。自宅の前庭に現れて、あなた方を喜ばせたり好奇心を満足させるためでもなく、わざと騒動を起こしたり、各国政府や地球人の生き方に干渉するためでもない。
 地球の空を飛ぶ彼らの宇宙船は、友情と同胞愛を表しているのだ。もしそうでなければ、彼らはとうの昔に何の苦労もせず、われわれを完全に支配できたはずである。彼らは「宇宙の法則」を理解し、それを利用するすべも知っているので、その気になれば地球のさまざまな状況をたやすく変えてしまうこともできよう。物質的現れに関する限り、ごく短時間で戦争や侵略行為を終わらせることもできようが、戦争や侵略行為が人間の心の中にある限り、それらを物質的世界から一掃しても何の効果もないであろう。
 宇宙の友人たちは、人類の運命が人類自身の手に握られていることを知りすぎるほど知っているので、地球に乗り込み、地球人に自分たちのようになれと強制したりはしない。なぜなら、誰も自らの自由意志で自分が望まないものになることはできないからである。

●彼らが地球に飛来する主たる目的は、単なる科学上の目的だけではない。それは、人類が自分自身を理解し、自分たちの真の存在目的を自分で知る必要性、各自の魂の中で目覚めの時を待っている強力な潜在能力に気づく必要性を、われわれに警告するためである。
 われわれは次のことを忘れてはならない。つまり、宇宙の友人たちにも日々改善を求めて遂行すべき生活があり、対処すべき問題がある、ということを。それなのに彼らは、自分たちの進歩のための時間を減らしてまで、暗闇に生きるドジな兄弟たちに援助の手を差し伸べてくれるのだ。
 彼らは誰に対しても特定の生き方を強制しない。従って彼らの唯一の願いは、「神聖な法則」が形態化するためのより完璧な経路になりたいと願う人々を手伝うこと、「聖なる神」と一体になるためのはしごを登る人々の手助けをすることである。
 現時点でわれわれを教育するのは彼らの目的ではない。なぜなら、まずわれわれ自身が、進歩のために必要な努力をしなければならないのだ。

●人類は、キリストの御国がこの地球に建設可能となる前に、まず自らのうちに天国を探し求めなければならない。宇宙の友人たちは、人間の心と魂にすさまじい苦闘を起きさせずに御国がもたらされることはない、と承知している。なぜなら、暗闇を愛し、反目し拒絶したがる者が多いからだ。この地球が多くの反抗的魂をかかえた牢獄の世界であることも知っている。これらの反抗的魂が、権力と支配と破壊のあくなき願望を持ち続ける限り、闘争と戦争も存在し続けるに違いない。

 孤立の原因は地球にある
●何百年も前からヨーロッパやアジア、アメリカなど世界各地で、証人としての能力のある目撃者が奇妙な物体を空中に目撃したという確認済みの記録が残されている。地球は長い間、別の世界の住民に監視されてきたのである。

●合衆国やいくつかの国では、国民には秘密の各種新型機を多数保有していて、外見がいわゆる空飛ぶ円盤に似ているので円盤と誤認されてきたのである。
 そのほかに、多数のUFOが存在する。これらのUFOは3つのグループに分けられ、それぞれが異なる発進地から飛来したとも言える。第1のグループは惑星間飛行用で、円筒型や円型もしくは球型の物体。第2グループは異次元間飛行用で、三角型もしくはピラミッド型の物体。第3グループは地球製で、円盤型の物体である。それらはまったく異なる目的を遂行しているので、さまざまなタイプのUFOを同時に目撃することはめったにない。

●地球製の円盤型物体は、ほとんどすべての国で目撃されているが、とりわけ軍事目的で核物質を扱う場所の上空で目撃されることが多い。これらのUFOは友好的なものとして分類するわけにはいかない。これらのUFOは友好的な目的で地球を訪れる他の惑星人たちのものではないのだ。一部の人や本や映画がなんと言おうと、大気圏外から攻撃を受ける危険、太陽系の他の惑星の「宇宙の友人たち」から攻撃される危険性など、まったく存在しない。
 いやそれどころか、援助が必要なときは、宇宙の法則と一致した形で、多くの欠かせない援助が与えられるのだ。

 UFOを隠す勢力が恐れること
●今のところ政府は、他の惑星から飛来した宇宙船と乗員に関する情報の大部分を出し渋っている。実際に隠蔽工作を押し進めているのは、各国政府よりもむしろ政府の背後に控えた「世界の支配層」のほうである。彼らの懸念はこうなのだ。要するに「いったんフタを取ってしまえば(真相を暴露したら)、民衆がより偉大な力の真理をはっきり理解してしまい、現在の法体系は無効になるのではないか」というのである。

●われわれは今やっと偉大な生の入り口にさしかかったばかりで、この新しい生においてわれわれは文字どおりの異人種――超人――になるのである。だがその前に、クモの巣のようにからみ合った無知と迷信のもやもやをすべての地球人の目から取り除き、真理と理性と自由――否定的思考や貪欲、恐怖、偽善、偏屈、戦争、破壊などの奴隷となることからの自由――に置き換えなくてはならない。

●今や宇宙の法則は地球上のあらゆるものを変えつつある。「新時代」には新しい人種が現れるであろう。なぜなら現在でさえ、すでに全人類にある種の突然変異が起き始めているのだ。さまざまな見えざる影響力が宇宙の至るところに働き、そのあるものはあまりに微妙でとらえがたく、最も敏感なものさえ気づかない。人間の生はかつてなかった姿へと変わるであろう。すべての暗闇と否定的思考が「光」によって消滅する運命にあるからである。

 新たな時代の新たな生き方
●ご自分の歩む道を選ぶのも、その道によって何かを得るのも、無視して何かを失うのも、生涯を「新しい霊的な時代」にささげ、「新しき御国」にいたる「光の道」を歩むのも、現在の「暗闇の時代」にあって堕落の道を歩み続け、ついにはサタンと一体化してしまうのも、まったく読者がご自分で決めることである。
 ある段階から先は、だれも他人を手助けすることはできないのだ。あなた方は自分自身を救うことを願うべきであり、とにかくそれだけを実行すべきなのである。
  「人間はだれしも自分以外の人間を救うことはできない。あなたも一人の神であり、それゆえに、決して無力なわけではない。あなたは自分の“救い主”なのである」

 中東に発する全地球的試練
●世界の終末を恐れてはならない。なぜなら、およそ何事にも終末なるものは存在せず、変化だけが存在するのである。とはいえ多くの場合、われわれは肝心の変化に気づかない。それはわれわれの自我と身体が体験しつつある変化の過程が、周囲のあらゆる物事と同時に進行しているためである。一瞥なりと世界全体をながめてみようではないか。

●地球は2~3年に及ぶ決定的に重大な事態を経験することになっており、人間の心もいまだかってない激しい試練と厳しい詮議にさらされるはずである。もしあなた方がそれを生き延びれば、いわゆる文明と称するものの全組織が一変する様を目撃するであろう。

●人間の生き方に1つの新しい時代が待ちかまえているが、この新時代にあっては、われわれが物質的価値と見なしてきたあらゆるものの威厳が消滅するであろう。今や人類の一人ひとりが、来たるべき新秩序のもとで「霊的時代」を生きるにふさわしい者となる絶対的必要に迫られているのだ。

●あなた方は起こりうるあらゆる事態に備え、自分の霊的住まいを整えるべきである。われわれは重大な転換期に臨んでいるからだ。われわれは長い間、もっぱら霊的なものより物質的なものを手に入れることだけに注意を払ってきた。いったんついた習慣はやめにくいものである。だが、あなた方は今すぐ、自分がいまいるところから出発しなければならない。自分がすでに得た栄誉に甘んじて何もせず、ほかの仲間が代わりにしてくれるのを待つ余裕はないのだ。一人ひとりに独自のなすべき仕事、ほかの誰にも代行できない役割があるのである。

●何が起きようと、自分が永久に生きることになっているかのように生きるがよい。人間の身体は、永遠の生命をもつ魂の住まう神殿にほかならず、「無限なる神」が物質的に現れることを第一の目的として作られているからだ。有形物から物質を超越した世界が見えるように心の目を訓練するがよい。
 自分を束縛するものにしがみつくのをやめ、真理の探究者としての誠実をひるむことなく守り続けよう。

 訳者あとがき(抜粋)
●最近の日本人の救い難い拝金主義(その昔、内村鑑三が福沢諭吉を日本人を堕落させた拝金教の教祖として激しく批判したそうですが、その教祖様の御尊影が最高紙幣にそりかえり、カネの代名詞にさえなっているのも、単なる偶然とは思えません)などを見るにつけても、人類の滅亡は必至で、もはや残された時間はわずかしかないと痛感致します。

 財布がふくらみ、魂がやせているのは、大いなる呪いのしるしである。
                        ―― バニヤンの言葉より

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UFOとアポロ疑惑 月面異星人基地の謎 コンノケンイチ・著  学研  2004年11月刊

なわのつぶや記より【転載】

UFOとアポロ疑惑 月面異星人基地の謎
コンノケンイチ・著  学研  2004年11月刊



  コンノケンイチ氏の本で最初に出会ったのは『ケネディ暗殺とUFO』(たま出版/1990年刊)でした。大変な衝撃を受け、この種のテーマに関して、生来の旺盛な好奇心に火をつけられました。それ以来、この著者の本はすべて読んでいます。
  また『新・第3の選択』(水島保男・著)や『月の先住者』(ドン・ウィルソン・著)、『宇宙からの警告』(ケルビン・ロウ・著)などといった類似の書籍も読みあさり、月に先住民がいることは疑う余地がないと思うようになりました。しかしながら、コンノケンイチ氏が手に入れ、解析してくれたNASAの月面写真がやはり圧巻といえます。その最新刊の写真集がこの本です。
  ここでは肝心の写真が紹介できませんので、関心のある方は本を購入して写真を眺めていただくことをお勧めします。おそらく、これまでの常識が音を立てて崩れることになるはずです。                               (なわ・ふみひと)


 「プラウダ」が認めた月面構造物の存在
  驚くべき報道が2002年10月5日、ロシアの新聞「プラウダ」の公式サイトで、ロシア語、英語、ポルトガル語で流された。
  「プラウダ」はレーニンによって1921年に創刊され、旧ソビエト共産党の機関紙として、発行部数1000万部を誇った権威ある新聞である。かつての隆盛さは失われているが、中国の「人民日報」と同じく、ロシアの官報として、西側には出てこない貴重な情報が流されることが多い。
  以下はその全訳文(2002年10月18日、電子版公式サイト)である。

  月面上に都市発見!
  地球外(異星)文明の理にかなった活動が、突然にわれわれの近くで姿を現した。しかし、われわれはその事実に対して、まだ心理的な準備ができていない。
  われわれは「宇宙に存在する知的生命は人類だけなのか?」という疑問を、さまざまなメディアで多く見聞きするが、なんと、その存在が地球の衛星である月に認められたのである。 しかし、この発見は直ちに秘密事項として超極秘にランクされた。
  それは人類存在の社会原理をゆさぶりかねないほど、信じがたいことだからだ、とロシアの新聞「Becherny Volgograd」は報じている。
 ここにひとつの公式なプレス・リリースが存在する。
 1996年3月21日、ワシントンのナショナル・プレスクラブで開かれたNASAの会合で、火星と月の調査に参加している科学者と技術者たちは、自分たちの研究発見に関する成果を報告した。
 そこで、初めて月における人工構造物と物体の発見が発表されたのである。
 NASAの科学者たちはかなり用心深く、曖昧な表現を用いて、それらが人工物であると絶えず言及し、公表する情報はまだ研究下にあるので、調査結果は近い将来に公的に発表されるだろうと述べた。
 その席上、旧ソ連でも、月における異星文明の活動を証明する多くの写真や資料を所有していたことにも言及された。
 つまり、異星文明の活動と痕跡が歴然としている月面の多くの場所を、アポロとクレメンタイン計画で撮影された何千枚もの写真やビデオは捉えていたというのである。
 会合では、アポロ計画で撮られたビデオ・フィルムと写真が公開され、人々はどうして今まで、そのような重大な事実が公表されなかったのか非常に驚いたが、それに対してNASAの専門家たちは次のように答えている。

  地球外生命体が月面で、過去も、現在も活動しているという事実に対する人々の反応を、予測することはむずかしかったのです。さらに、ほかにも大きな理由があって、それはNASAの権限を大きく超えていました。(筆者註:NASAの権限を超える存在とは、呼称はさまざまだが、アメリカと欧米を支配する“超国家勢力”を指す。この超機密方針に反して、ケネディ大統領はアポロ計画の真の目的を公表しようとして暗殺されたといわれている)
  だが、アメリカにおける月研究の専門家リチャード・ホーグランドは、それらの写真資料が一般に公表される前に、すでにNASAが手を加えていると語っている。彼らは写真をコピーする際に、部分的に手を加えて修正したり、ピントをぼかしたりしているというのだ。
  ホーグランドや他の研究家たちは、異星文明が地球で活動する際の中継基地として、月を利用してきたのではないかと推測している。
  こうした月面都市の遺跡――大規模な基地にそびえる巨大なドーム、おびただしい数のトンネルと散在する多くの建造物など――は数キロにもおよぶ範囲で発見されている。
  月面の部分的に破壊されたいくつかの建造物は、自然の地質学的な法則を無視して配置され、幾何学的で複雑な構造をなしている。現在のところ、44の地域でさまざまな構造物が発見されているが、NASAゴダート宇宙センターとヒューストンの宇宙研究所は、それらの地域の調査を続行しているという。

 月面で発見されたさまざまな構造物
これまで発見されたものを列挙してみよう。
●アポロ10号は、キャッスル(城)と呼ばれる1マイルにもおよぶ物体の写真を撮っている。
  これは高さが14キロもあり、いくつかの円筒部と大きな接合部から構成されているように
  見え、月面に明瞭な影を落としている。写真の一部には、城の内部の多孔構造が明瞭に
  見えるが、このことは物体の一部が透明なことを示唆しているのかもしれない。
●アポロ12号が月面に着陸したとき、半透明のピラミッド型UFOによって監視されていた。
  そのUFOは月面上の数メートルにホバリングしており、暗黒の空へ虹色の光を放ってい
  た。
●1969年、嵐の海に着陸したアポロ宇宙飛行士も同じUFOを目撃し、それは後に“縞模様
  の眼鏡”と呼ばれるようになった。
●アポロ14号の宇宙飛行士エドガー・ミッチェルは、地球に帰還後、次のように答えた。
  〈月では、絶えず頭の向きを変えなければならなかったので、まだ首が痛みます。月にいる
  のは、私たちだけではなかったからです。祈るしかありませんでした〉
  (中略)
  この会合の席上で、こうしたことがNASAの科学者たちによって説明された。
  かつて、ホーグランドは、NASAにキャッスルの写真提供を要請したが、すでにアポロ10号の写真リストから消えていた。ただ、記録保管所で問題の映像は見つかったが、非常に不鮮明なものだったという。
  NASAの専門家たちは、古代都市によく似た一部破壊された建造物に、とくに興味を抱いている。それらの写真では、構造物は驚くほど規則的な正方形と長方形による幾何学模様を形成しており、上空5~8キロから見下ろしたときの、われわれ人間の都市に似ている。
  ミッション・コントロールの専門家は、それらの写真に関して次のようにコメントしている。
  〈私たちは、NASAの金庫の奥深くに隠されている、月面都市の廃墟や透明なピラミッド、ドームなどの写真を見たとき、見捨てられた小島の砂の上で、裸足の足跡を見つけたロビンソン・クルーソーのように感じました〉
  NASAも、そのような類の隠蔽工作がいかなる結果をもたらすかを、ようやく理解したのである。
  異星文明の理にかなった活動が、思いもかけず地球の衛星・月に認められた。しかし、われわれは精神的に、まだ準備ができているとはいえない。NASAの関係者でさえ、いまだにそれが現実だと信じられないでいるのだから。
  以上が「プラウダ」の記事の全文である。

 ●● 異常構造物とNASAの隠蔽工作 ●●
 「ディスクロージャー・プロジェクト」とは?
  2001年5月9日、ワシントンDCのナショナル・プレスクラブの大ホールで、新聞、雑誌、テレビなど総勢100名を超えるマスコミ報道陣が見守る中、「ディスクロージャー・プロジェクト」(UFO暴露計画)という講演会が開催された。ディスクロージャー・プロジェクトとは情報開示のことで、地位と名誉ある人物たちによるUFO情報の暴露を意味する。
  暴露計画の推進者スティーブン・グリヤ博士が講演会を行なった理由は、次のようなものであった。

1.UFO情報は人類共通の問題で、アメリカ一国が独占すべきものではない。
2.地位と名誉ある人物が証言すれば、世間は信用する。
3.いまやUFOが存在するかどうかなど論議している場合ではなく、人類最大の問題である
  ことを一般の人に認識してほしい。

  主旨は、「アメリカ政府はUFO情報を極秘にし、それに関わった軍や政府関係者たちは、絶対に外部に情報を口外しないという誓約書にサインさせられ、違反した者は厳罰に処せられる。その強制権は職を辞めた時点で無効になるべき」というものだった。
  主な証言者は、次のとおり。

 ・マーキュリ計画の宇宙飛行士、ゴードン・クーパー。
 ・アポロ14号飛行士、エドガー・ミッチェル。
 ・元グレームレイク・ネリス空軍基地所属、ドン・フィリップス中尉。
 ・元連邦航空局事故調査部長、ジョン・キャラハン。
 ・元アメリカ戦略空軍司令官、ロバート・サラス大尉。
 ・元アメリカ空軍情報部、ジョージ・ハイラー少佐。
 ・元アメリカ空軍基地管制官、マイケル・スミス。
 ・元アメリカ陸軍原子核エンジニア、ハーランド・ベントレー。
 ・元イギリス国防大臣、ヒル・ノートン卿。
 ・元NASA職員、ドナ・ヘアー。
 ・元FBI調査官、ジョン・メイナード。

  実に錚々たるメンバーである。
  そして、主な証言内容は次のようなものであった。

 ・月を中継基地に、すでに異星人が地球に来ている。
 ・NASAは、アポロ計画の写真を修正して公開している。
 ・政府は異星人と密約を交わしている。
 ・異星人は地球人を誘拐して実験している。
 ・ケネディ前大統領は、アポロ計画の目的を公表しようとして暗殺された。
 ・UFOの推進技術を、政府が極秘に研究、開発している。
 ・湾岸戦争にUFOテクノロジーが使われた。

  これらの事実を、20人以上の人々が自ら進んで、実名で証言したのである。
  講演会の模様は、CNNやBBCテレビでもかなりの時間を割いて報道され、ロシアや中国など諸外国もニュースとして大きく取り上げた。インターネットでもリアルタイムのライブ放送で流され、5月1日から6月26日まで140万件ものアクセスがあったが、日本ではニュースにもならなかった。
  その中でもっとも筆者が注目したのは、元アメリカ空軍情報部ジョージ・ハイラー少佐の「湾岸戦争にUFOテクノロジーが使われた」という証言と、NASAの元職員ドナ・ヘアーの「NASAは、アポロ計画の写真を修正して公開している」という証言であった。

 証言の信憑性を裏づける証拠
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霊人の証明・続々丹波哲郎の死者の書(2/2)

なわのつぶや記より【転載】

霊人の証明
続々丹波哲郎の死者の書(2/2)

丹波哲郎・著  中央アート出版社  1983年刊
1・10な稀代の女霊能者・長南年恵の肖像写真。このとき43歳。
さて、4番目のポイントは、長南年恵の周辺、特に髪の毛のあたりから、いつも「いい香りがしていた」という“事実”。
  雄吉の「事実証明願」の1項目にもあるように、彼女は2カ月以上も獄中に拘禁されて、入浴や洗髪の機会など、ほとんど与えられなかったものと思われる。ところがその髪は「いつも結いたてのように黒々と艶やか」であり、形容しがたいほどの「いい香り」がほのかに匂いたっていたという報告があるのだ。
  実は、霊界と「におい」とは深い関連性があるのである。
  スウェーデンボルグの説明でも「悪霊たちのはびこる“地獄界”では、堪えられないような悪臭が充満している」というし、反対に、「天使たちの遊ぶ。天界層や神界層では、えも言われぬふくいくたる香りが満ち満ちている」のである。こうした両者の「におい」の相違は、その霊の霊格の反映であるという。つまり、霊格の高い霊人ほど、いい香りを好むものであるし、自らその周囲はつねにいい香りに包まれている。ところが、霊格の低い悪霊となると、逆に悪臭が彼らのごちそうというわけで、好んでそういう場所を求めたがるということなのだ。
  わが国の古い経典でも「仏(死者)の食べ物はにおいである」と述べたものがあって、仏前に“香”を献じるのはそのためだ、とされているほど、霊界と「におい」とは密接な関連があるのだ。
  だから、長南年恵の周辺に、いつも芳香が漂っていたという“事実”は、彼女が高い霊格の持ち主であったことの証明材料とも言えると思う。

  続いて5つめのポイントは、鶴岡監獄の中でも、年恵の家や参詣中の神社でも、多くの人びとが耳にしたという「妙なる音色」についてである。これは信者たちばかりでなく、獄吏とか群衆整理の警官たちまで聞いている。いずれも、年恵に「神様がお下りになった」状態のときに聞こえてきたという。“証人”の形容によれば、その音色は雅楽のしょう、ひちりきや、笛、鈴の音などのようであったとも言うし、「どの神様がお下りになったかによって音色が違っていた」とも言われている。
  では、霊界と「妙なる音色」との関連性はどうか。
  これも、「におい」のところで述べたのとほぼ同様の説明がつくのである。
  つまり、「におい」と同様、「音」もまた、その霊の霊格や「霊界で置かれている状態」を如実に示す役割を果している。要するに、霊格の高い霊人たちの住む天界層、神界層では、いつもどこからともなく、心を浮きたたせるような「天上の音楽」が流れているものだという。反対に、地獄界では、悪霊たちの霊格の状態を反映して、不快このうえもない騒音のようなものが、耳障りに響いているというのだ。
  霊界と「音」との関連を語るもっとも身近な例をあげよう。ひとつは「死の知らせ」とか「虫の知らせ」というものである。遠方にいる縁者などが、その死を近親者に伝えるこの現象は、「扉を叩く音がした」とか「風もないのに窓ガラスが鳴った」など、その多くが「音」で通信されている事実はよく知られているところである。
  また、たとえばお通夜などで死者の霊が近親者に寄こす、ある種の「音」通信も、知られている例のひとつだろう。鈴を振る音にも似た「妙なる音色」を伝えてくる死者は、自分が幸福な状態で満足のうちに死んだことを示しているといわれる。ところが、「無念の死」といわれるような死に様の死者は、何か破壊的な衝動に駆られ、近親者にも「耳障りな音」を伝えてくるものだといわれている。
  このように、霊界と「音」とは緊密なつながりのあることが、おわかりと思う。

  次に掲げる“事実”は、「いったいどこへ行ってしまうのか、しばしば年恵女の姿が見えなくなった」と弟の雄吉をはじめ、側近者たちが語っている証言。これが6番目のポイントである。今まで自室にこもっていたかと思うと、忽然と姿を消していたり、神社ヘー緒に参詣に赴いた際にも、ふっといなくなったり、ということがよくあったという。
  そこで思い出されるのは、エマニュエル・スウェーデンボルグの、やはり「よく姿を消した」といわれる行動である。伝えられるところによれば、彼はしばしば自室にこもって一切の入室を禁じ、2、3日間から長いときには1週間以上も姿を現わさなかったという。もちろん、その間、食事をした形跡はない。本人の語るところによると、彼はその期間、「霊界へ行っていた」というのだ。また、スウェーデンボルグは、ゴッテンバーグというスウェーデン西部の都市の集まりで、奇妙な「姿の消し方」をしている。ちょっとの間姿が見えなくなったと思っていると、戻ってくるなり彼は突然、今ストックホルムで大火事が起こっていると語って一同をびっくりさせる。しかも、まさに目の前で見てきたとしか思われないほど、克明にその様子を語って聞かせたのだ。ある者が首をかしげながら、どうしてそんなことが判るのかと問うと、「今、実際に見てきたからだ」という答えである。当然のように一同の者たちは、彼の話を信じないまま当夜は散会となったが、2日後、ストックホルムからまさに彼が語ったとおりのニュースが飛び込んでくるに及んで、ようやく事実であることが知れたのだ。この事件は「ストックホルムの火事の話」として、当時ヨーロッパ中に広まり、スウェーデンボルグの名を一躍高めたといわれる。しかも、あの大哲学者カントが、わざわざこのことを本にまで著わしているのである。
  長南年恵の場合も、姿を消したとき「霊界」へ行っていたか、あるいは今のスウェーデンボルグの話のように、どこかの場所へ行っていたと考えても、決して不思議ではないだろう。
  「霊人」にとっては、瞬時にある場所から別の場所へ移動することなど、極めて容易な話であるからだ。いかに遠く離れている場所の往復でも、霊の世界の住人にとっては、少しも障壁とはならないばかりか、すべて一瞬のうちにやってのけることが可能なのだ。というのも、「霊人」は肉体ではなく霊体を移動させるからである。言い換えれば、“念”を飛ばすことによって、即座に目的の場所への到達が可能というわけなのだ。
  年恵女が「霊界へ行っていた」ことの裏付けは、姿が見えなくなったばかりでなく、証人たちが語っている「誰か死人が出ると、年恵女に頼んで、その様子を教えてもらった」という報告や、「日清戦争の予言を多くし、ことごとく当った」という事実、それに「失せ物などもピタリと言い当てた」ことによっても明らかだろう。
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霊人の証明・続々丹波哲郎の死者の書(1/2)

なわのつぶや記より【転載】

霊人の証明
続々丹波哲郎の死者の書(1/2)

丹波哲郎・著  中央アート出版社  1983年刊
1・10な稀代の女霊能者・長南年恵の肖像写真。このとき43歳。
★ なわ・ふみひとのひとくち解説 ★
  ここで使われている「霊人」という言葉の意味は、「肉体のままこの世と霊界を行き来できる人」ということです。つまり、三次元世界の肉体を持ちながら、四次元の世界へ行ったり来たりすることができる“超能力者”ということになります。いま流行の「幽体離脱」というレベルではないのです。
  最近「人類は2012年に次元上昇する」ということを話題にする人が増えています。「次元上昇」のことを「アセンション」という言葉でも呼んでいるわけですが、これは新約聖書の中で、処刑されて死んだはずのイエスが肉体のまま消えてしまって、再び肉体を持って現れたことに由来する言葉で、「昇天」とも訳されています。
  この本に出て来る長南年恵という女性は、肉体のまま霊界に行き来できたということですから、イエスと同じように大変霊格の高い人(霊)であったことがわかります。単なる霊能者という意味ではないのです。そのように霊格を高めるにはどうすればよいのかということを理解する上で、ここにご紹介したエピソードは大変参考になると思います。

 第1章 「霊人」の証明
  長南年恵が霊界から何らかの使命を与えられて現世に現われてきた、いわゆる「霊人」であったかどうかを調べるには、まず「霊人」とはどんな存在か、を検討してみる必要があるだろう。
  言うまでもなく「霊人」というのは、“この世”ならぬ“あの世”の住人である。
  というと、どうして“あの世”のことが判るのか、と疑問に思われる方もいるかもしれない。
  “あの世”のことが判らなければ、当然、その世界の住人である「霊人」のことも判るはずがないからだ。そこで、霊界の実相を語るものとして、「生きながらにして霊界を見て来た」というエマニュエル・スウェーデンボルグの報告を掲げよう。これが現在考え得る限りにおいて、最も克明で最も信頼できる「霊界報告」であるからだ。
  この「史上唯一の霊界探訪者」のことは、前にもいろいろなところで紹介してきたので、ご存知の方も多いと思うが、18世紀に生まれたこの傑物の「霊界報告」は、今日においてますますその信憑性の高さが評価されてきている。彼の著わした「霊界の実相」が、心霊科学や超心理学の分野の研究が進んでいくにつれて、それが“真実”の報告としか考えられないような状況になってきているのだ。たとえば、レイモンド・ムーディ博士が“近似死者(ニアデス)”たちの共通体験例から報告している“死者”たちの「死の直後」の様相などは、スウェーデンボルグが述べていることとみごとなくらい合致している好例だろう。

  スウェーデンボルグはスウェーデンの貴族であり、政治家、科学者、数学者、哲学者のうえ発明家でもあるという多才な人物で、あのゲーテの『ファウスト』のモデルとまで言われたほどの業績を残している。彼が霊的にめざめたのは、55~56歳の頃と言われており、以降、生きながらにして霊界と現世とを往復するようになり、10数巻にも及ぶ『霊界日記』を著すに至る。
  当時、スウェーデンボルグは、この霊界報告の日記を出版しようと様々な出版社に持ち込むが、ことごとく門前払いを食ったばかりでなく、友人からも「君のような社会的地位のある人間がそのような荒唐無稽なことを言い出すと信用にもかかわるからよしなさい」と忠告を受ける始末だったという。やがて、うさんくさい人物として社会的にも退けられるようになり、いわば母国を追われるかたちで英国へ渡ることになる。そして、この国において、スウェーデンボルグは、例の『霊界日記』をようやく自費出版というかたちで世に問うことができたのである。しかし、まったく世間の注目を集めることもなく、黙殺されてしまうのだ。
  彼の業績が陽の目を見たのは、その死後しばらくたってからだった。その死後136年を経た1908年、母国スウェーデンの学士院は国王に依頼して、わざわざ軍艦を仕立ててスウェーデンボルグの遺骸を引き取りに行く。これはまったく前例を見ない待遇であるわけで、彼の業績がいかなる意味を持つものであるか、そして20世紀においてすらその価値が高いことが、ようやく理解されたことの明白な証しといえる。また、1910年、ロンドンにおいて「国際スウェーデンボルグ会議」というものまで開かれ、世界中の学者や宗教家など400人が出席して、彼の業績を20世紀の学問水準に立って討議、検討したと言われている。

  さて、ではそのスウェーデンボルグが『霊界日記』において報告している「霊人」の特徴とは何なのか。長南年恵の生理、行動と共通する点はあるのか、無いのか。話をその点に絞って検討してみることにしよう。
  まず、冒頭の雄吉(長南年恵の弟)の「事実証明願」にも記述されている「大小便という生理現象がない」ことや「絶飲絶食の状態であった」という“事実”については、次のとおり説明付けられる。
  つまり、「霊人」という存在は、まったく「食物をとらない」のである。だから、生理現象がないというのも、しごく当り前の話になる。
  霊界における「食物」は、このように説明されている。
  すなわち、霊人たちは現世におけるような「食物」や「飲物」を必要としない。というのも、人間がなぜ「食物」や「飲物」を摂る必要があるかといえば、肉体を保持し、健康な状態を保つため、というのが最大の理由であるわけだ。ところが霊人というのは、そもそも。“肉体”を持っていないのだから、必要ないのは当然なのである。人間界における“肉体”に相当するのは、“霊体”と呼ばれるものだが、これは「霊界の太陽」から発せられる「霊流」というものによって生かされる仕組みになっている。“霊体”を保つために、「食物」や「飲物」にあたるものをことさら摂る必要などないのである。
  ただ、人間界から精霊界へ渡ったばかりの時期においては、禁煙をはじめて間もない人間がしばしばロさみしさを覚えるのと同様に、過去の習慣の名残りから、「食物」や「飲物」を求めるケースはあるという。(しかし、その場合にも実際に「食物」や「飲物」を摂るわけではなくて、その“幻像”を口に運んで食事をしたような気になってみるだけである。だが、やがてその愚かしさに気付くと、まったく欲しがらなくなってしまうのだ)
  また、スウェーデンボルグは「天使たちにとって、食物にあたるのは“愛”であり、飲物に相当するのは“知性”である」という意味のことを語っている。
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7つのチャクラ・魂を生きる階段(2)*お金のために気を売り渡していないか

なわのつぶや記 より【転載】

7つのチャクラ

魂を生きる階段(2)

キャロライン・メイス・著  川瀬勝・訳  サンマーク文庫

お金のために気を売り渡していないか
  お金は、気と同じく中立の物質であり、使う個人の意図に従う。お金が持つさらに興味深い一面は、それが生命力の代わりとして人間の精神に織り込まれることがあるという事実だ。これは無意識に行なわれることが多いが、お金を生命の気と同一視してしまうと、ふつうその結果は悪いものとなる。というのは、人が使うお金はすべて、無意識レベルでの気の支出でもあるからだ。お金の不足は、気の不足につながる。これも無意識に起きることだ。
  お金を生命力と誤って解釈したうえ、さらに突然お金を失う事態に直面すると、それが病気の引き金となることがある。たとえば、前立腺ガン、性的不能、子宮内膜症や卵巣の問題、腰痛や座骨神経痛などだ。つまり、お金は性的な力と同一視されるようになっているのだ。
  誰でも精神の内面で、ある程度はお金と生命力を一緒に考えている。もちろん、本質的には別の存在である。しかし、できることなら、別々でありながらも、容易に、しかも自然に、自分の気にお金が引き寄せられてくるような関係をつくることが私たちの課題だ。
  お金との関係が親密でなく、非個人的であればあるほど、必要に応じてそのエネルギーを人生のなかに引き寄せてくることができる確率も高まる。
  象徴の世界、気の世界でも、お金が相当な影響力をもっていることは疑いの余地がない。「口だけでなく、金も出さなくてはならない」とか、「口で言うのはたやすい。本当にものを言うのは金だ」といったような言いまわしは、お金をどうするかのほうが、ただ口で語る意図よりも、その人の本当の動機についてずっと多くを語るという、私たちの文化の視点を示している。

  お金はまた、私たちが自分の個人的な信念や目標などを公にする手段でもある。気は行動に先立って存在するものであり、私たちの持つ意図が、結果にかなり影響する。
  お金についての信念は、霊の道についての考え方やその実践にも影響を与える。神は、良い行ないをしようとした者に金銭的にも報いるという信念は非常に強く、慈善行為などが、自分を確実に貧困から守ってくれるという信念も同様だ。この種の信念はほかにもたくさんあるが、すべてそれは、神が金銭を通して意志を伝えているのであり、反対に私たちも金銭を通じた行動で神と意志を伝え合っているのだという、さらに大きなレベルの見方を反映しているのである。
  このよぅな信念が、真実に基づくものなのか、あるいは一種の神話なのかは、この際無関係だ。信じていないよりも信じている部分のほぅが多いことはたしかで、この事実からだけでも、私たちがお金と信仰をつなげていることを理解しなくてはならない。お金との最も賢い関係とは、「信ずる心」が人生に引き寄せてくることのできる物質として、お金を見ることだ。

  お金よりも「信ずる心」を優先させることは、お金の役割を、「主」から、よりふさわしい地位といえる「召し使い」へと降格させる。お金を超越して何かを信じる心があれば、金銭的な心配をせずに、自分の直観による啓示に従う自由が与えられるのだ。もちろん、この物質世界の一部であるかぎり、債務や支払いなどのルールは守らねばならないし、お金とも常識的な関係を保つことは必要だが、ただそれだけのことで、それ以上のものではないのだ。
  このような信心をもちはじめること自体、すでに霊的な意味での成熟のしるしといえる。霊的に成熟した人間は、ある啓示に従って行動することもあるが、お金をまず第一に考える人にとっては、それはばからしいことに思えるだろう。
  霊的な神話によく登場するのは、天が信心をもつ人に接触し、ある指示を与え、それを遂行できるように、日々「天からの食物(マナ)」を与える、という話だ。天からいただく食物の一部には、金銭的なエネルギーも含まれる。私の知るかぎり、霊に関する書物のどこを探しても、神からの啓示に従ったことを後悔したという人間の話は出てこない。

  第4のチャクラは、「自分の手を離し、神にすべてをまかせる」ことができるかどうかを決定する。その気を使うと、私たちは感情面での難題を、神なる計画の一部として受け入れることができる。その計画の意図とは、私たちの意識の進化である。感情的な痛みを手放し、過去の出来事がなぜあのように起きたのかを追求しないようになると、私たちはやすらぎの状態に到達できる。しかし、この内面のやすらぎを達成するには、許しの気を体現し、人間が勝手に決める、より低次元の正義の意識を手放さなければならない。

 一生かけて愛の力を学ぶ
  愛はあまりにも強い力をもつため、私たちはいくつかの段階を経て、徐々にそれを知っていくようになっている。各段階は、さまざまな愛のかたちとその力について学ぶ機会を提供する。許し、慈しみ、寛容、親切、自分や人を大切にする気持ちなどだ。そして、私たちは各チャクラの構成に沿って、これらの段階を踏んでいく。
  まず最初は第1チャクラ、つまり同族のなかで愛を学ぶ。家族のひとりひとりから、さまざまなかたちで表現された愛のエネルギーを吸収する。同族による愛は無条件なこともあるが、ふつうは集団への忠誠と支持への期待を伝えてくる。同族的な環境では、愛は自分と同類の人たちと分かち合うエネルギーなのだ。
  第2チャクラが目覚め、友情の絆を学ぶにつれて、愛は成長して、「部外者」もその対象に含まれるようになる。血のつながっていない人に分け与えたり、その人を大切にすることを通して愛を表現するのだ。
  次に第3チャクラが目覚めると、外的なものや、自分の個人的なもの、身体的なもの、物質的なものへの愛を発見する。たとえば、運動や学問、ファッション、異性との交際、職業や家庭、そして身体への愛などがあげられる。

 「傷ついた子供」からぬけ出すことがつぎの一歩
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7つのチャクラ・ 魂を生きる階段 *キャロライン・メイス・著 

なわのつぶや記 より【転載】

7つのチャクラ

魂を生きる階段(1)

キャロライン・メイス・著  川瀬勝・訳  サンマーク文庫

  人生は、ときとしてつらいこともある。しかし霊的に見れば、私たちは、人生で体験する痛みにきちんと直面するようになっている。欧米では、神が人間のためにつくった計画が誤解されており、人生は快適で何の問題もないことが当然と考えられている。神の存在の有無を、人生の快適度で測ってしまうのだ。だが、神でも仏でも、あるいはどんな霊的な指導者であっても、痛みのない人生など保証してはいないし、それがいいとすすめてもいない。霊の道の教えは、苦しい体験ひとつひとつが霊的な学びであり、あらゆる体験の裏に隠された学びに気づく助けにもなってくれるのだ。

 第1の法則 ―― 体は人生の履歴書

  うつ状態というのも、調子が悪いことを示す症状だ。臨床医学の世界では、うつ状態というのは一般に感情的、精神的な障害とみなされている。だが長期にわたるうつ状態が、身体の病気の前ぶれということもよくある。
  「気」の観点からいうなら、うつ状態というのは、文字どおり無意識のうちに「気」が失われていく、ということだ。「気」という言葉を、「生命力」と置き換えてもいいだろう。エネルギーがお金のようなものだとしたら、うつ状態とは、財布を開けて、「好きなだけ金をもっていっていい。どう使われようとかまわない」と宣言するようなものだ。
  長期間のうつ状態は、間違いなく慢性的な疲労を引き起こす。誰がどれだけ自分の金を使おうと気にしなければ、誰でも間違いなく一文なしになるだろう。それとまったく同じように、「気」がなければ健康を保つこともできない。

  誰でもネガティブな感情はもっているが、そのすべてが病気を引き起こすわけではない。病気になるのは、ネガティブな感情が支配的な力をもつときだ。

  病気なった人や自分を責めてはいけない。人が意識的に病気をつくり出すことはまずない。「自分がとっているのは身体に有毒な行動パターンや態度だ」と気づかないでいる結果として、病気は発生するのだ。病気になり、自分の態度を見直すことを余儀なくされてはじめて、私たちは日常の恐れや反感に満ちた態度が、実は身体に悪い物質だと悟る。
  「気」とは力である。つらかった出来事をいつまでも思い出しつづけてエネルギーを過去に送っていると、いまという瞬間に存在する身体から力が漏れ、それが病気につながることもあり得る。

 第2の法則 ―― 健康でいるためには内面の力が欠かせない
  第1の法則、身体は人生の履歴ということと、第2の法則、健康でいるためには内面の力がいるということを、まとめて考えてみよう。
  力は私たちの内面の世界と外界との仲介役を果たし、その際に神話的な言語と象徴でコミュニケーションを行なう。たとえば、いちばんわかりやすい力の象徴であるお金のことを考えてほしい。お金を力の象徴として自己の内面に取り入れると、お金を稼ぎ、支配することがその人の健康を象徴するようになる。
  お金を稼ぐと、その人の身体は、体内に力が入ってきたという信号を受けとる。「自分にはお金がある、だから安全だ、安心できる。自分には力があるし、これですべてはうまくいく」という無意識のメッセージを心が伝達する。身体に伝達されるこの肯定的なメッセージが、健康をつくり出すのだ。もちろん、お金をたくさん稼いでも、健康が保証されるわけではないが、貧困、無力感、それに病気は、間違いなくつながっている。お金を稼げなくなったり、突然お金を失ったりすると、身体が弱くなることもある。

 第3の法則――自分の癒しを助けられるのは自分だけ
  「気」の医学はこう教えている。
  「自分の健康をつくり出す責任は自分にある。ということは、あるレベルでは自分が病気の発現にもかかわっている。自分を癒すことで、病の癒しにかかわることができる。それは、感情的、心理的、肉体的、そして霊的な存在として自分を同時に癒すことを意味している」
  「癒す」と「治す」は同じではない。「治す」というのは病気の身体的な進行をコントロールできた、あるいは抑えられた、ということだ。身体の病気が治っても、もともと病気の一部であった感情的、心理的なストレスが軽減されたとはかぎらない。病気が再発する可能性も十分ある。
  「治す」というプロセスは受動的だ。患者は医師に処方される治療処置に、自分をいかようにしてもいいという権限を与えてしまう傾向がある。これに対し「癒し」とは、自分から取り組む積極的な内面のプロセスである。これまでのものの見方や記憶、信念などを見直し、自分が感情的、霊的に百パーセント回復する妨げになる否定的なパターンをすべて手放したいと欲することだ。

 象徴的なものの見方を学ぶ

  人生で直面する困難から、何か意味を見出すことだ。自分の健康にそれがどういうつながりをもっているか考え、感じとってみる。

  誰が、ということよりも、何が自分から力を奪っているのか問いかけることではじまる。気を奪っている人間とは、実は自分のなかのある部分の反映にすぎないと理解しなくてはならない。
  たとえば誰かに嫉妬しているとしたら、あなたにとっての問題はその人ではなく、その人に反映された自分の影なのだ。嫉妬している対象の人に焦点を合わせても、自分を癒すことにはならない。次から次へと同じことを教える「教師」が送られてくるだけであり、新しい教師は前の教師よりも強烈になっていくことだろう。
  あなたの課題とは、その教師に反感を持つことではなく、教えられるレッスンを学び取ることなのだ。

  人生は本質的に学びの体験だ。すべての状況、人間関係、難題には、自分で学ぶか、あるいは人に教える価値のあるメッセージが隠されている。

  すべての状況において、肯定的なエネルギーは否定的なエネルギーよりも効果的に働く。

  「いま」という瞬間に生きること。そして、まわりへの許しの心を実践すること。

 7つのチャクラの象徴的な力
  チャクラの体系は、人間の成熟の過程に見られる7つの明確な段階を、元型(アーキタイプ)として描写したものだ。
  チャクラは人間の身体の脊椎の基底から頭頂まで、縦一直線に並んでいるが、これは私たちが物質世界の誘惑を徐々に克服することによって、神性へと昇華していく過程を暗示している。チャクラにある学びをマスターしていくにつれ、人は力について、また自己についての知識を得て、それが自分の霊に統合されていき、高次の霊的意識に向かう道を一歩前進することができるのである。

 第1のチャクラ  物質世界についての学び
 第2のチャクラ  セクシュアリティ、仕事、物欲についての学び
 第3のチャクラ  自我、人格、それに自己敬愛についての学び
 第4のチャクラ  愛、許し、慈しみについての学び
 第5のチャクラ  意志、自己表現についての学び
 第6のチャクラ  知性、直観、洞察、叡智についての学び
 第7のチャクラ  霊性についての学び

 7つのチャクラと7つの聖なる真理との共通性
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断食・少食健康法 *甲田光雄・著

なわのつぶや記 より【転載】

断食・少食健康法
甲田光雄・著  春秋社  1990年刊

 少食こそ健康法の基本
  少食実行者の体験報告を聴いて感ずることは、少食こそ健康長寿への基本であり、「慢性難病」を根治に導く秘訣であるということです。
  彼らの元気な姿を見ると、“少食”の関門をくぐることなしに難病を克服することは不可能ではないか、といいたくなります。最近の健康法ブームでは、ニンニク健康法、アロエ健康法に始まり、玄米菜食健康法、生野菜食健康法等々、じつに多種多様の健康法が紹介され、宣伝されています。これらの健康法の書物を読んでみますと、どれもこれもその効果の素晴らしい面が強調されており、どんな病気でもそれを実行すれば治ってしまい、また無病長寿が約束されるように錯覚してしまいそうです。しかし、私にいわせていただくなら、「いかなる健康法を実行するにしても、少食を守れないものは結局健康になることができないであろう」ということです。西式健康法の創始者西勝造先生もその著『西医学健康原理実践宝典』の結びで、次のように過食を戒めておられます。
  「未だ私は、過食して重症の回復したものを知らない。云々……」と。
  「少食に病なし」とはまことに真なるかなです。世間には、健康法という特殊なものは何一つ実行しておらないのに病気らしい病気をせず、八十、九十の坂を無事に越え、見事長寿をまっとうする人がおられます。これらの長寿者の食生活を調べてみると、だいたいにおいて少食と粗食の習慣が見受けられるようです。長寿村として有名な、山梨県の棡原(ゆずりはら)における古老たちの食生活を調査された古守豊甫先生の著書『長寿村棡原』の中にも、少食、粗食が長寿の秘訣ではなかろうかと強調されております。

 少食の功徳
  動機は何であれ、厳しい少食をある期間実行し、その少食にも慣れてくると、もはやそれが特殊な食生活であるという観念が薄れてきます。
  「少食に病なし」というのも、それが終生の習慣になってこそ価値が現われてくるのです。単なる思いつきや一時的な戦略としては後が続かず、またもとの大食、飽食に戻ってしまうのが常のようです。大切なことは「少食の習慣」を身につけることです。少食の実行も、この域にまで進まないうちはまだ本物とはいえません。というのも私たちの運命を左右するものは、その人の身についている習慣に負うところが大だからです。「習慣が運命を刈り取る」といわれているとおりです。
  さて、こうした少食実行者の体験を聞く機会が多くなるにつれて、少食実行の功徳というべきものが次第に明らかになってきました。それらを列挙してみたいと思います。

① 少食で治病力が高まる
  第一に挙げなければならないことは、体内にある自然治癒力が高まり、いろいろの病気が好転するということです。慢性胃腸病、慢性腸炎をはじめ、リューマチ、糖尿病、筋無力症等もみな難治性の病気です。(中略)

② 少食は長寿を約束する
  世界の三大長寿村の一つ、南米のエクアドルにあるビルカバンバ村では、千人足らずの
人口の中で百歳を越える古老が9人もいるというのですが、彼らの食事内容を調べてみる
と、じつに少食かつ粗食だということです。
  老人たちは1日1200カロリー前後の低カロリー食で、それも肉や卵などの美食では
ありません。食事内容の大半は小麦、トーモロコシ、馬鈴薯及びバナナにブドウといった
穀菜果物食です。しかも彼らは決して家の中で安静にしているわけではありません。朝早
くから激しい肉体労働に従事しているのです。してみると、長寿の秘訣は少食で、しかも
身体をよく動かすということが重要な条件であるといえそうです。

③ 便通がよくなり宿便も排泄される
  少食実行者の報告で興味深いと思われるのは便通と、便の量です。
  まず少食を実行し始めてしばらくすると、便通が以前よりずっとよくなってきたことを
自覚するようになります。これは腸の蠕動運動が少食の結果として活発になってきたこと
を示しています。大飯を食べると、トコロテン式に便を押し出すことができるように錯覚
している人もあるようですが、このような考え方からは少食で便通がよくなるという事実
を理解することができないでしょう。しかし、少食で確かに便通がよくなるのです。反対
に大食こそ便秘の原因です。このためついに宿便を大量腸管内にためてしまうことになり、
それがいろいろな病気を惹き起こす因になるのです。
  現在当院へ入院し、西武健康法の全般的な実践に加えて、断食療法も行なっておられるK夫人は、2カ月余りの間に、2日、5日、5日の計12日間の本断食を完了されました。
その間に、バケツ半分余りも宿便が排泄されたので、本人はもう驚きあきれておられるの
です。「宿便が溜っていると聞いてはいたが、まさかこんなに沢山溜っているとは考えて
いませんでした」と。
  ところが、このK夫人は案外便通がよくて、入院前は少ないときで1日1回、時には
1目2回の排便をみることもあったのです。ですから、本人にしてみれば、それほど便秘
しているとは考えられなかったわけです。断食をして、はじめて大量の宿便を知ったので
した。
  では、どうしてこのように大量の宿便が溜ったか、それはK夫人が平素大食の習慣があ
ったからであります。大食によって、送り込まれてくる大量の食物を処理しなければならないため、胃腸は過労に陥ります。それにもかかわらず過食を続けていると、次第に胃腸の力が衰えてきます。そのため、完全な排泄が不可能になり、腸管の一部に便が停滞してくるのです。このような生活が長期間続けば宿便の量が次第に増えてくるのは当然のことです。バケツ半分にも余る大量の宿便がこうして溜ってしまうことになります。
  一方、少食にすると、胃腸の負担は軽くなり、したがって機能は完全に発揮されるようになりますから、消化吸収も排泄能力も一段とよくなってきます。事実そのとおりなのです。もちろん少食といってもその質が問題になるのは当然です。白米食と玄米食とでは同じ少食でも、玄米食の方がはるかに便通がよくなるということは既に多数の実証例で明らかです。しかし玄米食が便通をよくするといっても、もしこれを大食すれば、もちろん便秘に陥り、宿便を溜めるもとになります。この点、玄米食者も注意を要します。

④ 頭脳明晰となる

  昔から「馬鹿の大食い」といわれていますが、これは確かに当を得た格言であると思います。
  これを医学的に考察してみると、やはり宿便が大食によって腸管内に大量停滞する結果智慧の回らない人間になってしまうということでしょう。頭痛、頭重あるいはフラツキ等の症状は、腸管内の便や、ガスと密接な関連があるようです。それゆえ、宿便の大量保有者は当然頭脳が鈍ってくるものと考えてよろしい。
  一方、断食療法を行なった学生や児童たちが、その後において急に成績が向上したという報告を受けることが少なくありません。同様、少食を続けると次第に宿便が排除され、それにつれて頭脳も明晰になってきます。少食実行者が一様に「最近頭が冴えてきた」と報告されるのをみてもわかります。そして、たまに大食した翌日は頭が急に鈍くなってしまうのを自覚するようになります。そのためいよいよ少食の素晴らしい効能を理解することができるようになるのです。
  少食で頭脳が明晰になるということは、つまり記憶力や判断力がよくなるということです。50歳を過ぎると誰でもまず、記憶力の衰えを嘆くようになります。これがひどくなると、60歳そこそこではや老人ボケになってしまい、そしてついに恍惚の人の仲間入りをすることになります。ときどき恍惚の老人が当院へもやってこられます。この人たちのほとんどが例外なく餅やメン類の大食家であり、甘党、かつ平素あまり生水を飲まないというタイプです。
  このような人たちを前にすると、年はとっても若者に負けない若々しい頭脳の持ち主でありたいものだとつくづく考えさせられます。それには動脈硬化症を予防するのが最も肝要です。とくに脳動脈の硬化を防ぐことです。
  動脈硬化症といえばコレステロールとか中性脂肪が問題になるということを読者の皆様は既にご存知と思います。すなわちステーキやとんかつ、卵やハムのサンドイッチ、饅頭にぜんざい、あるいはケーキといった白砂糖入りの食品を過食したり、酒やビール、ウイスキーなどを飲み続ける人たちは、まず動脈硬化症の候補者といってよいでしょう。それにひきかえ、玄米、生野菜、及び海藻類を主とした少食主義者は、動脈硬化症にかかる可能性が非常に少ないのです。このことは、長寿村棡原の老人やビルカバンバ村の超老人たちの実態調査などからも納得されるところです。
  しかし、反対論はいつでもあるものです。横山大観氏のごときは90歳以上の長寿をまっとうしましたが、生前は酒豪でほとんど飯らしいものは食べなかったということです。また私の義兄などは生来病気らしいものとは何一つ縁がなく、若い時から大の甘党で、毎日のように饅頭やケーキ類を食べております。しかし、それによって健康を害ねる様子が少しもみられません。
  以上のような例をだして少食長寿論に反対する人がありますが、しかしこれらは特殊なばあいと知っておくべきです。大酒を飲み続けたり、甘いものを人並み以上食べていても長寿を得ることができるような人は、よほど体質がよく生まれついているのです。
  しかし、このような特殊な人のことを一般化して考えてはならないと思います。体質の悪い虚弱なものが、そのような真似をすれば、たちまち健康を害ねてしまうことは火を見るより明らかです。

 仏教による食事観
  僧侶が食事に臨んで起こすべき5つの想念、いま永平寮において、すべての僧が合唱する「五観の偈(げ)」を参考までにかかげ、彼らの食事観を窺うことにしましょう。

   五観の偈

 一つには功の多少を計り、彼(か)の来処(らいしょ)を量る。
  これからいただく食事がこのお膳に供されるまでに、どれだけ大勢の人たちの手を経て来たかを考え、その人たちの労苦に対し、心から感謝する。さらに、これらの食物を育んでくれた日光、空気、土、水などの自然の恩恵にも感謝する。

 二つには己が徳行の全欠を忖(はか)って供(く)に応ず。
  この食物をいただく自分はどれだけ人のお役に立つようなことをしてきたか。
  果たして本当にこの食物を受けるに値する資格があるだろうかとよく反省してみる。

 三つには心を防ぎ過(とが)を離るるは貪等(とんとう)を宗とす。
  私たちは食事に際し、ついより好みし、おいしいものはもっとほしいと貪りの心を起こし、味ないものには愚痴をこぼし、腹を立てたりする。この貪、瞋、痴の三毒でついに地獄、餓鬼、畜生の三悪道に陥ってしまうものであることをよく反省する。

 四つには正に良薬を事とするは、形枯(ぎょうこ)を療ぜんが為なり。
  これからいただく食事は、飢えや渇きをいやし肉体が枯死しないための良薬として考えればよい。そうすれば貪りの心や愚痴や瞋(いか)りの心も起こるはずがなかろう。

 五つには成道の為の故に今此の食(じき)を受く。
  私達が食事をいただく最終の目的は成道せんがためである。すなわち、まことの道を成し遂げるために食事をいただくのであって、決して食わんがためではない。

  このように仏教の食事観は、徹頭徹尾もののいのちを尊重するところから出発しています。そしてこのような生活こそ、じつは真の健康と叡智を生む道であると説いているのであります。すなわち、他のいのちを大切にするということが、そのまま己れの生命を最もよく生かす健康法でもあるわけです。ここに宗教・医学一体の考えが説かれているのをみることができます。
  したがって私たちが、人間としての業から他の生物を犠牲として生きているのだということを自覚するなら、犠牲になってくれた生物のいのちをよりよく生かしきってゆく生き方をするのでなければ、彼らに対して相済まぬわけです。ということは、なるべく少なく食べて、彼らのいのちを完全に私たちの血となし肉となし、より高次のいのちへと同化すべきだと思います。それなのに、おいしい御馳走がだされたからといって口からでるまで飽食し、ゲップを吐いて苦しんだ挙句、下剤を服用して大量の糞便としてそれを押し流してしまうというのでは、自分の胃や腸を悪くするだけではなく、犠牲になってくれた生物に対しても申し訳ないではありませんか。しかし、このような罪深いことを毎日くり返している人がいかに多いことでしょう。
  しかし、天はこのような横暴を決して許すはずがありません。飽食が自らの運命を台無しにしてしまうということは、既に医学的にも明らかとなってきました。してみると、たとえ「高僧」、「名僧」の善知識であっても、飽食の生活を続け、多数の生命を無駄に犠牲にしている限り、仏罰を蒙ることは必至です。いかに熱心に念仏を唱え、題目を唱えようとも、結局その罪は自ら刈り取らなければなりますまい。ということは必ず何らかの病を得て苦しむことになると思います。私たちはいまここに、仏教の食事観に従って、できる限り少食を守り、犠牲になってくれる他の生物を最小限にくいとめるような生活をすることが、じつは医学的にも健康と長寿を約束する食生活であったことを悟るべきであります。ここに、宗教と医学が少食という具体的な場で一体となることができるのです。
  すなわち、「食事即仏道」ということができるわけです。したがって仏道で説かれている慈悲の教えの実践者たらんとするものは、まず少食を実行することによって真にその資格が与えられるというべきでしょう。
  一つには、少食によって毎日くり返す殺生をできるだけ慎しみ控えること、これが。生きものに対する慈悲の心であります。
  二つには、少食によって完全に消化吸収された栄養できれいな血液をつくり、これを全身の四百兆にも及ぶ各細胞に供給することにより、組織は生命力に満ちた活動を続行することができます、これすなわち、四百兆の細胞に対する愛の行為であります。
  三つには、少食によって腸内の腐敗発酵がとまり、腸内細菌叢に住みよい環境を与えることになります。これも腸内細菌叢への愛の行為であります。
  さらに四つには、二杯食べる飯を一杯半に減らし、これをカンボジアやインドの飢餓に苦しむ人々に供養として与えるなら、これも慈悲の行為となりましょう。
  以上のことから、「少食即仏道」となるわけです。

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生きる力 ゲンマイ
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2016年1月1日 新年を迎え、日本に生まれた幸せをかみしめ、日本人で有る事の誇りを持ち、 生きる喜びを持ち続けたいと願いました。
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2011・2012この凄まじい年を生きている。幻想の世界が終り2013より今現在考えの及ばない 世界に入ると云われている。*私達の力がどれ程強いか、自己主権を持った者であり自由であるそれが現実です。意識が自由になって初めてそれが外に現れると。本当の自分を思い出す時が来た(ジョージ・カヴァシラス)