後白河法皇と院政

ねずさんの ひとりごと より【転載】
14・9・5ね 
(09/05)

後白河法皇と院政
後白河法皇
後白河法皇
9月5日といえば、保元3(1158)年に後白河法皇が院政を開始された日です。
後白河法皇といえば、平安時代の末期の第77代天皇であられた方です。
後白河天皇は、退位して天皇の地位を二条天皇に譲ると、上皇(じょうこう)となって、政治に直接介入、平清盛と激しく対立しました。
そして幾度も上皇の地位を追われながら、清盛の死後、またまた上皇に復活されています。

わたしたちの国における最高位の位は、昔もいまも天皇です。
ではなぜ後白河天皇は、天皇という地位をお捨てになり、「院政」という、おかしな政治形態をはじめられたのでしょうか。
実はそこに、わたしたちの国のカタチの、とても大切な本質があります。

ちなみに私は「この国」という言葉をあまり好みません。
「この国」という言葉には、わたしたちの国を意図的に客体化してみる、あるいは他国のよう見るという冷たさを感じます。
日本は、まぎれもなくわたしたちの祖国です。
ですから「この国」ではなく、「わたしたちの国」です。

さて、院政(いんせい)という言葉は、江戸時代に頼山陽が「日本外史」の中でそのように表現したことから、広く知られるようになった言葉です。
実際に、たとえば後白河上皇が政治に参画した時代には、特に「院政」という言葉があったわけではなくて、院政を行う上皇が「治天の君」と呼ばれていました。

問題は、院政であれ、治天の君であれ、天皇という存在がありながら、なぜ、わざわざ天皇が退位して、天皇の地位を皇太子殿下に譲るまでして、自分は「上皇」となって、政治に介入しようとしたのか。
世界にある普通の国なら、これはきわめて考えにくい、説明のつきにくい出来事です。

なぜなら、普通、君主や国王というのは、その国最高の政治権力者です。
政治権力を揮うために、その最高の政治権力者としての地位を、わざわざ他に譲るなど、矛盾しています。
会社の社長が、社長としての権限を揮うために社長の役を息子に譲って、みずからは会長にひく?
ありえないことです。
わざわざ地位を息子に譲らなくても、よその国なら、そのまま王や君主の地位にとどまって、政治権力者としての辣腕を振るえばよいはずだからです。

では、天皇がわざわざ上皇となった理由とは何なのでしょうか。
その答えは、実に簡単なことなのです。
古来、わたしたちの国の天皇は「政治権力者ではなかった」からです。
古来、わたしたちの国における天皇は、政治権力者ではなく、政治権力を揮う人に、その権力の裏付けとなる認証を与える「権威」であったのです。

たとえば、会社において、部長さんは、部の責任者です。
部下を持ち、部下にあれこれと命令する権限が与えられています。
部長さんがどうして部下に命令できるかというと、会社から部門の長(責任者)としての部長という肩書き(権威)を与えられているからです。
つまり、部長さんは、会社という権威によって、部長としての権力を与えられています。

同様にわたしたちの国では、政治を直接行うのは、太政大臣であったり、関白であったり、将軍であったりしました。そしてそれらの地位が持つ権力は、すべて天皇によって与えられていたのです。
そして天皇は、直接政治権力を揮う存在ではなくて、あくまで政治権力を揮う人を任命し、その権力者が政治権力を揮うための権限を与える「権威」としての存在とされてきたのです。

では、なぜ天皇に「権威」があるかといえば、それは天皇が我が国の最高神であらせられるアマテラスオオミカミから綿々と続く万世一系のお血筋にあたられる方だからです。
お血筋というのは、誰にも否定できません。
ですから、その血統によってもたらされる「権威」によって、施政者に「権力」を与える。
こうした「権威」と「権力」の明確な建て分けが、わたしたちの国の古代からある特徴です。

ではどうして、わざわざ「権威」と「権力」を建て分けたのでしょうか。
世界中どこの国でも、王権は、「権威」と「権力」の両方を兼ね備えたものです。
日本だけが違っています。

「権威」と「権力」の両方を兼ね備えた存在、仮にこれを「王」と呼ぶことにします。
この場合、「王」の権力は絶対です。
その国のすべては「王」の支配下に置かれます。
領土も領民も、すべて「王」の財産であり、「王」の私有物です。
これが「支配」です。
ですから「王」は、その国における唯一絶対の「支配者」です。

その国に「支配者」がいるということは、その国のすべては、その「支配者」に隷属しているということです。
領土は「支配地」であり、領民は「隷民」です。

西洋では、そうした「王」の権力は、神によって授けられるとされました。
これが王権神授説です。
神様によって王権を授けられたのですから、「王」は神様の代理人です。
神様は、人間の生殺与奪の権を持っていますから、その代理人も生殺与奪の権を持ちます。
ですから「王」の権力は絶対のものです。

これは支那でも同じです。
支那では皇帝が支配者ですが、その権力は天の神様である天帝によって授けられるとされました。
ですから支那皇帝が神様の代理人です。
ということは、支那の周辺国の「王」たちは、天帝の代理人である支那皇帝から「王」としての認証を授けられて、はじめてその国における王権の行使が可能とされることになります。
その王権の認証が「冊」という木簡に記述されたため、これを冊封体制と呼びます。
「冊」に記録され王に封じられるという体制、という意味です。

そして「王」には、支那の皇帝から王としての大きな印鑑が授けられました。
その印鑑を持つ者が「王」であったわけです。
そういう次第で、日本も古代倭国の時代には、支那皇帝から冊封を受け、印をもらっていました。

ちなみに、この印は、オリンピックと同じで、金銀銅の三種類がありました。
金印は、冊封された諸国の中でも最高位の国王を示す印です。
いまの日本でいったら、東京都知事くらいの規模と財力のある国だけに授けられたのが金印です。
それ以外の県知事さんなら、銀印です。

最後の銅印となると、権威的には町長さんか村長さんくらいのイメージになりますので、これは銅印とは呼ばずに、泥印と呼ばれました。
べつに泥でできているわけではなくて、ちゃんとした銅でできているのですが、そう呼ばれたということは、それだけ軽く見られていた、もしくは国家というよりも、それ以下の存在と支那の皇帝からみなされていたこということを示します。
ちなみに、泥印で冊封を受けていた国としては、日本に統治される前の李氏朝鮮や、琉球王朝がこれにあたります。

国王が、その支配権を正当化するために、支那の皇帝から冊封を受け、印をもらう。
これが東洋社会における一般的なカタチでした。これを「華夷秩序」といいます。
つまり支那皇帝からみたとき、周辺国の「王」は、支那皇帝の家来という関係にあったということです。
そして東洋諸国は、なんとつい近代まで、ずっとこの冊封体制下にありました。
もっというなら、19世紀まで、この体制下にあったのです。

ところが日本は、とみてみますと、日本もなるほど古代においては、魏志倭人伝に書かれていたり、親魏倭王の金印があったりと、支那皇帝から冊封を受けていたのは事実ですが、この冊封は、なんと西暦478年に、倭王武(雄略天皇)が宗に使いを送って冊封を受けたのが最後なのです。
5世紀の出来事です。
そしてそれ以降、日本は二度と支那の冊封を受けていません。
完全な独立国となったのです。

歴史に詳しい人なら、「だってそれ以降も足利義満が日本国王に任命されたり、懐良親王が日本国王に任命されたりしたことがあったじゃないか」とおっしゃる人がおいでかもしれませんが、日本の君主であり、国家統治上の最高権威である天皇ご自身が、支那皇帝から冊封を受けたということは、478年以降、一切ありません。
それどころか、西暦478年から600年まで、なんとその後122年間も、日本は支那との交渉を絶っています。一切交流がない。

西暦600年になると、第一回の遣隋使が派遣されていますが、これは支那に超大型軍事大国の隋ができたためで、なるほど使節は派遣していますけれど、冊封は受けていません。
このことは、実はとても大切なことで、支那の側からみますと、日本は「国交は持っていても支那に従属していない国」、つまり「支那皇帝の家来(臣下)になっていない国」であったということです。
支那皇帝の権威権力の前に服属するのではなく、あくまで独立自尊国として、支那と対等に付き合ったということです。
日本は、華夷秩序から脱出したのです。

このことについて、よく「日本は遣唐使、遣隋使を通じて支那の『進んだ文明』を取り入れようした」と記述しているものを見かけますが、こういう記述を論文詐欺といいます。
たいへんに誤解を与える印象操作の文章だからです。
進んでいようがいまいが、そこに学ぶべきものがあれば、それを積極的に吸収し、国のため、民のために役立てる。これが日本人の普通の考え方です。

実際、鎖国していたといわれる江戸時代にも、日本は遠くインドにまでライ病患者の治療薬を求めて学習していますし、その江戸時代に蘭学がたいへんに盛んであったことはよく知られた事実です。
オランダやインドが、進んだ文明であったかどうかではなく、わたしたちが知らないこと、そこに民衆のために、人々のために学ぶべきことがあれば、いまだって、アメリカでも、南米諸国でも、ロシアでも太平洋の島々にでも、日本人は出かけて行って、そこから何らかの学びを得ようとしています。それだけのことです。

実はこの「民衆のために、人々のために」というところが、わたしたちの国においてもっとも大切な根幹です。

わたしたちの国の最高の統治者は天皇です。
ところがその天皇は、統治者でありながら、直接政治権力の行使をしません。
しないけれど、民衆を「おおみたから」としています。

統治者が政治権力者である場合と、統治者が政治権力を持たずに、それを他に委ねる場合と、何がどのように違って来るかは、コップにたとえるとよくわかります。
いま、みなさまがコーヒーのはいったコップを手にしているとしてください。
そのコップが、あなたのものであれば、あなたはそのコップを、捨てようが(追放する)、割ってしまおうが(殺す)、誰かにあげてしまおうが(人身売買)、それはあなたの勝手です。
なぜなら、そのコップは、あなたのもの(私有民)だからです。

けれどのそのコップが、誰か他の人のもの、たとえば会社のものであればどうでしょう。
あなたは、そのコップを、割ることも、捨てることも、誰かにあげることもできません。
あたりまえです。自分のものではないからです。

同じコップです。
手にしているのも、同じ「あなた」です。
けれど、そのコップが、自分のモノなのか、他人のモノなのかによって、そのコップの処遇はまるで違ったものになります。

これと同じです。
世界中、どこの国でも、豪族や国王たちにとって、民は私物です。
私物ですから、好き放題、捨てることも、奪うことも、殺すことも、奴隷として誰かに売ってしまうことも、それは豪族や国王たちの自由です。

ところが日本では、太古の昔から、民は天皇の民とされてきたのです。
こうなると、国王(太政大臣や将軍)などにとって、民は私有民(自分のもの)ではありません。
自分を政治権力者にしてくれた天皇の民です。

先ほどのコップが、単に会社の備品というだけでなく、天皇からの恩賜の国宝であればどうでしょう。
もったいなくて、気楽にお茶やコーヒーを入れて飲むことさえできません。
それこそ神棚に祀って、毎日拝まなきゃならない。

ところがまさに日本では、民は「天皇の民」とされたのです。
ですから「民」は、天皇の「おおみたから」です。
「おおみたから」というのは、大和言葉です。天皇の宝物ということです。民が、天皇の宝物なのです。
諸外国と日本では、民の立場も、政治権力者の立場も、まったく違うのです。

こうした我が国のカタチは、現代でもなお続いています。
内閣総理大臣は、与党第一党の党首ですが、与党第一党の党首だからといって、即、内閣総理大臣として政治権限を揮えるわけではありません。
天皇の親任式を経て、天皇に親任されて、はじめて内閣総理大臣としての権力を行使できるようになっています。
つまり、日本のカタチは、いまもむかしも同じです。

だからこそ、日本では誰もが、内閣総理大臣をはじめとした政治権力者は、民のための政治を行うことが当然のことだと思っています。
自分のフトコロをだけを肥やし、民を省みない大臣など、近年三年半ほどそういう人が三代にわたって総理を勤めた時代がありましたが、これはわたしたちの国の歴史上、およそ考えもつかないくらいの異常事だったのです。

我が国のすぐ近くに3つの国がありますが、そこでは大臣や閣僚、大統領や国家最高指導者や総書記、主席という肩書きを持つ人は、民のための存在ではありません。
民は、先ほどの私物としてのコップと同じです。
彼らは自分のために生き、自分のために政治権力を利用します。
そしてその権力者の権力や財力に群がるごく一部の人たちだけが、贅沢三昧な暮らしをします。

先般、そのなかでいちばん大きな国の閣僚が亡命しましたが、個人の現金資産が120兆円だったそうです。
なぜそのようなことができるのか。
民の年収を6万円くらいにしておいて、国のありとあらゆる富を私的に独占すれば、誰だってそういう大金持ちになれます。
そのかわり民は著しく貧しい状態に置かれ、地震や火災、竜巻などの大規模被害が起こっても、鉄道事故が起こっても、被災地復興や、民の生命や財産は守られず、もっぱら復興資金は、復興資金という名目だけの権力者のフトコロを肥やすことだけに費消されことになります。
これが「ウシハク」国の姿です。

さて、今日は「院政」のお話です。
ここまで読まれた方なら、もう「院政」がなぜ行われたかが、もうお判りのことと思います。
天皇は、直接政治権限を揮う存在ではありません。

けれど、たとえば後白河天皇の時代ならば、平家一門がその財力にものをいわせ、平時忠などが調子づいて「平氏にあらずんば人にあらず」などと暴言を吐いたりしていたわけです。天皇の民のことを、「人にあらず」などと、とんでもないことを言い出したのです。
これを見過ごす事はできない。
だから後白河法皇は、みずから天皇を退位し、権威としての統治者の地位を息子に譲った上で、ご自身で政治を司ろうとされました。
天皇の地位のままでそれを行ったら、天皇の存在を他国と同じ私的支配者にしてしまうからです。
日本が「シラス」国であったからこそ、後白河法皇は、あえて上皇として院政を行われたのです。

政治は、あくまでも民のために行うもの。
先祖伝来の、アマテラスオオミカミの代からずっと続く「公民(おおみたから)」を護りぬくために、あえて上皇となる。
それはたいへんに尋常ならざる政治のカタチだけれど、民を私有民と考える横暴を抑えるためには、他に選択の余地がなかったといえようかと思います。

「院政」が、なぜ行われたのか。
それはまさしく「民のための政治」が行われるようにするためです。
けれどいま、教科書でそれを明確に説明しているものは、つくる会の教科書をのぞいては、他にありません。

それどころか、冒頭の絵は後白河法皇ですが、とかく昨今の小説やドラマなどでは、後白河上皇を権力志向の強い権力への執着心の強かった人物として描かれることが多いようです。
けれど、後白河天皇は、政治権力を揮うためにあえて、天皇の地位を捨てて上皇となられています。
それは後白河上皇が、天皇の権威という役割と、政治の権力が何のためのものであるか、完全にご理解されていたからです。
そしてその根底に「シラス」と民こそが「おおみたから」という概念を、完全に完璧に把握しておいでだったからです。

政治は、平家一門の贅沢のためにあるのではありません。
あくまで民のためにあるものです。
その思いがあったればこそ、後白河天皇は、あえて天皇という地位を捨てて、後白河上皇となって、政治に介入されたのです。
逆に言えば、後白河天皇という存在が、いかにありがたい存在であったのかということです。
そういう視点で日本の歴史を振り返れば、また違った歴史が見えて来るだけでなく、これからの日本のあるべき姿も見えて来るのではないでしょうか。

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2016年1月1日 新年を迎え、日本に生まれた幸せをかみしめ、日本人で有る事の誇りを持ち、 生きる喜びを持ち続けたいと願いました。
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2011・2012この凄まじい年を生きている。幻想の世界が終り2013より今現在考えの及ばない 世界に入ると云われている。*私達の力がどれ程強いか、自己主権を持った者であり自由であるそれが現実です。意識が自由になって初めてそれが外に現れると。本当の自分を思い出す時が来た(ジョージ・カヴァシラス)