戦争は少年の私に何を残したかー昭和の少年と戦争の記憶 子安宣邦 2014年04月29日

一円融合 心田開発 より【転載】
10・21・一
2016-01-02(05:05)
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 戦争は少年の私に何を残したかー昭和の少年と戦争の記憶

子安宣邦 2014年04月29日 
 1 消える記憶
昭和16年12月8日の対米英開戦の報を知らせるラジオの臨時ニュースの高ぶった声を、私はなお鮮明に耳の底に残している。そのとき私は9歳であり、小学3年生であった。そして終戦の詔勅を聞いた昭和20年8月15日は、県立川崎中学校(川中)1年生の私にとって夏休み中の一日であった。すでに13歳であった。いま私はこの10歳前後数年間の戦争と戦後の記憶を思い起こしながら、何が消え、何が残っているかを書きたいと思っている。

 戦災という直接的な被害の体験ならずとも、敗戦を境にした数年の日常的衣食住における欠乏の体験は普通一般の人びとにとってはもっとも苛酷なものであったはずである。いかに食べたらいのか、何を着るのか、どこに住むのかが、人びとにとってもっとも深刻な問題であったはずだ。だがもっとも深刻であったはずのこの衣食住の欠乏体験を、時間の経過は消していくようだ。不足よりも過食を気にするような時代になり、衣装の個性を競い、破れたジーンズをわざわざ好んで着るような時代になると、あの衣食住における苛酷な体験の記憶は薄れ、むしろそれは懐かしい耐乏の記憶に変わってしまうようである。しかしあの時代もっとも深刻であったのはいかに食べるか、どこに寝るかであったはずである。

 本土への米軍の空爆が頻繁に行われるようになった昭和20年の4月に私は中学(川中)に入学した。その入学式の日、南武線は不通であった。当時私たち一家は、川崎の市中から強制疎開によって市の北部の登戸に移っていた。その日、姉に連れられて町田から横浜戦経由でやっと川崎の学校にたどり着いたことを覚えている。南武線は戦中・戦後しばしば不通になった。私たちは20キロの道のりを線路の枕木を踏みながらよく歩いたものである。中学で弁当をもっていくようになったが、しかし弁当箱に入れる米などはなかった。私はよくさつま芋を一本新聞紙にくるんでもっていった。さつま芋をもっていける私などはまだましであったかもしれない。何ももたないで来る学友もいたはずである。だがその立場を思いやる余裕は私たちにはなかった。私たちが疎開で移った登戸は当時まったくの農村で、子供たちは草鞋履きで小学校に通っていた。雪の朝、びしょ濡れの草鞋で通学したときの泣くほどのつらさだけはいまも覚えている。ゴム長靴などはもちろんなかった。それから雨の日、雨漏りのしない屋根の下で寝たいと痛切に思ったものである。こうした衣食住における欠乏と困苦の体験は敗戦の迫った時期から戦後の一二年のものであっただろう。私にとってそれは小学6年から中学2年にかけての時期である。こうした欠乏と困苦の体験は、私の生きるための精神のバネを作り出すものであっても、心に傷跡を残すものではない。困苦体験の肉体的な痛切さは、肉体的な充足とともに、痛みの記憶は薄れていくようである。私の心に強いトラウマを刻みつけたような戦時の体験は別にあった。

 2 夢に見た恐怖
 敗戦を間近くした時期にみた夢を今でも私は覚えている。それをいつまでも私が記憶しているというのは、その夢をみた直後から何度もその内容が私の心の内で反芻されたからである。本土への空襲がすでに常態化し、「本土決戦」が叫ばれている時期であった。「一億玉砕」という標語は、小学6年生の私にとっては偽りのかけ声ではなく、子供にも死の決意を促す重い言葉として受け取られた。口に出すことは許されなかったが、恐ろしい事態であった。本当は逃げたい思いであった。

ある夜、いよいよ一億玉砕が迫った日の夢をみた。その夢の中で私は玉砕の場から逃げようとする弟を「非国民」といって謗っていたのである。夢はただそれだけであった。しかしその夢をみた直後から、自己嫌悪に似た思いを私は反芻し続けた。逃げたいと思ったのは弟ではなく、実は自分ではないのか。夢で弟が私の心理を代表したのではないのか。卑怯なのは自分ではないのか、と私は内心で反芻し続けた。もちろんその当時こう整然と夢分析したわけではない。しかしこの夢をみた直後から自己嫌悪に満ちた思いを私はもち続けたのである。その自己嫌悪の思いは私が夢の中で弟を「非国民」と謗ったことによって二重化された。逃げたい自分が逃げる弟に向かって「非国民」という言葉を浴びせる自分の偽善が嫌であった。この自己嫌悪感をここに書いたように分析できたのは、戦後になってからだろう。しかしこの夢は消し去ることのできない自己嫌悪の思いをトラウマのように私の心に刻んだ。「自分は本当は卑怯者なのだ」といった嫌悪感を。

あの戦争は「一億玉砕」といった言葉を当時の少年たちにただの空語としてではなく実語として与えていった。その標語は彼らに死の決意を促していったのである。20世紀の総力戦とは子供をも巻き込んで死の決意をさせる、そういう性格のものである。沖縄戦における住民の集団自決に軍の命令ないし指示があったか、なかったかが法廷で争われたりした。しかし「一億玉砕」とは本土の子供にとってもそれは実語であったことをいっておきたい。軍部とは「一億玉砕」という国民に死を促す命令の体現者であり、発信者であったのだ。その国民には私のような子供も含まれている。だれがその命令をいったか、いわなかったかといった問題ではない。あの総力戦を遂行した軍部は「一億玉砕」をまさしく実語として国民に与えていったのである。

あの戦争の時代、「非国民」というレッテルを貼られることは、村八分に会うと同様の、あるいはそれ以上の共同体的差別を受けることを意味した。「非国民」の謗りは、死の宣告と同様の恐怖を人びとに与えた。それは恐ろしいレッテルであった。私が夢の中で弟に「非国民」と謗ったのは、自分がその謗りを受けることへの恐怖を裏返すものであった。ファッシズムとは「非国民」の謗りを浴びせながら、あるいは国民同士が浴びせ合いながら、国民の全心身的結集をはかっていく政治的体制であるのだ。

 3 共同体的トラウマ

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 あの戦争の時代に小学校・中学校の教育を受けた私たちに良い意味で忘れられない教師がいるとともに、悪い意味で忘れ去ろうとしても忘れ去ることのできない教師がいる。ここでは実名をもってことに後者の教師たちについて語ろう。実名をもって語ることこそが彼らには相応しい。私は疎開で川崎北部の農村地帯に移り、その地の国民学校6年に転入した。クラスの担任は金井という男性の教師であった。農村地帯ゆえの実習授業がしばしばあった。ある時間、縄ないの実習授業があった。川崎の都市部で育った私は藁を手にしたこともなければ、もちろん縄をなったことなどない。途方に暮れた私は、周囲の生徒たちの縄なう様を一生懸命まねて、どうにか10センチほどの縄様のものをこしらえ、教師にそれを見せにいった。教師は一言も発することなく、私が作ったその縄様のものを抛り捨てたのである。それは私にとって肉体的な制裁以上の重い制裁であった。彼は都会育ちの子供に、そのひ弱さを思い知らせようとしたのかもしれない。だがそれはこの農村を代表してこの教師が私に加えた恨みに満ちた制裁に思われたのである。

 私は疎開でこの地に移ってはじめて農村共同体の内部に入るという体験をした。言葉のなまり、草鞋や半纏などの衣装の同調を私は求められた。共同体的同調への強制は子供の世界ではきびしかった。私は仲間入りするために番長的な子に媚びていたようだ。弟からなぜあんな奴のいいなりになっているのだといわれたりもした。だからあの教師の仕打ちは、都会育ちの子供への教師の手を借りてした共同体的な制裁に思われたのである。この教師の仕打ちは私に重いトラウマを刻みつけた。それは共同体的トラウマといっていい。私の戦時のこの閉鎖的な農村共同体の体験は、戦時における「非国民」という排除的制裁の恐怖と重なって、私に共同体的トラウマを刻みつけた。

 4 狂気の制裁
 やがて敗戦を迎える中学1年のとき、小柴という西洋史の教師がいた。当時2年以上の上級生はすべて動員されて工場で働いていた。新入のわれわれ1年生に対してだけ通常の授業が行われた。それは貴重な授業であった。敵性言語である英語の充実した授業も行われた。古代ギリシャからローマ帝国の形成と衰亡にいたる西洋史の授業も実に興味あるものであった。だが小柴というこの西洋史の小柄な教師は、敗戦が近づくにつれて狂気じみていった。ある時間、もし戦争に負けることがあったらいかに米軍によって日本の女性たちがレイプされるかを語ったりした。当時、空爆によって大きな穴がいくつもあいた校庭を芋畑にしていた。その農作業をわれわれ1年生が担当していた。放課後の農作業は、使用した鍬やシャベルを爆弾による穴にたまった水で洗って終了することになっていた。ある日、一人の級友が過って鍬を穴の水底に落としてしまった。小柴という教師による制裁はそれから始まった。われわれは一列に並ばされた。鍬を失うことは、兵士が陛下に賜与された武器を失うことと同様であるとかいって、生徒の頭を鍬の堅い樫の柄で一人ずつ撲っていった。頭を叩く音が順次近づく恐怖にわれわれは耐えていた。鍬を失ったその級友に対して小柴は他の生徒以上に力を入れたのであろう。その級友は頭から血を出して倒れた。狼狽した小柴がその生徒を抱え起こしたことだけは覚えている。その後の経過を見届ける余裕などはわれわれにはなかった。

 この教師による恐ろしい制裁事件をわれわれは心の底に飲み込んで、人に語ることもなかった。われわれ自身も語り合うこともしなかった。それは心の底に凍結しておきたい恐ろしい事件であった。それをわれわれが言葉に出して語るようになったのは、あれから50年余を経過した同窓会の席上であった。そしてこの文集でも私以外にもこの事件に触れるものはいるだろう。われわれは当時12、3歳の少年であった。その少年の頭を樫の柄で撲るという狂気の制裁行動に戦争は教師を追い込んでいったのである。そしてこれに類した事はどこでも行われていたのである。総力戦に少年を含めた国民を駆り立てるということは、こうした狂気の制裁行動をともなってであることをここにはっきりと記しておきたい。戦争とは戦場で人を殺し、殺されることだけではない。戦場ではない内地で教師をも狂気に追い込み、生徒の死をも招くような制裁行動に駆り立てもするのである。あるいは「非国民」のレッテルを貼りながら、共同体的排除の恐怖に人びとを落とし入れもするのである。それが兵士ならざる人びとにとっての、また子供にとっての戦争なのである。

 5 終戦の日の記憶
 終戦を迎える年の8月、われわれは中学生としての最初の夏休みの中にいた。小田急の鉄橋のかかる多摩川の近くに住むわれわれはほとんど毎日川遊びにふけっていた。きれいな多摩川であった。8月15日、大事な放送があるというので家に帰り、ラジオの前の整列して玉音放送を聞いた。天皇が読む詔勅の言葉はほとんど私には分からなかった。その放送が終わって、大人たちが何を語り合ったのか、何も覚えていない。そそらく皆無言であったのだろう。私は天皇の詔勅中の「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び」という言葉だけを耳に留めることができた。私はそれを「さらに忍耐強く戦え」と国民を励ますものと解した。その日の午後、ふたたび川原に集まった少年たちはあの天皇の放送の意味を語り合った。私はさらに戦えといったと主張した。別の子は戦争は終わったのだといった。戦争が終わったということはその日のうちに明らかになった。翌日の朝、われわれは恐れもなく空を見上げることができた。アメリカ空軍の支配する空を恐れもなく見上げることはそれまでできなかったのである。ほんとうの解放感を私は味わった。

 夏休みが終わり、中学の新学期が始まった。工場動員されていた上級生たちが学校に帰ってきた。同時にあの小柴などファッショ的な教師たちは姿を消していた。戦後の解放と混乱の学校生活が始まった。

 戦争とは少年であったわれわれにとって何であったのか。太平洋戦争とは何であったのか。その戦争に先立って日華事変という大陸での戦争が続けられていたことを、アジア・太平洋戦争という15年にわたる戦争を日本はしていたことを、私たちは戦後になって知るのである。この戦争の意味の認識は戦後のことであるが、しかしこの戦争は少年であるわれわれに消すことのできない心の傷痕を残していった。私にとってそれは戦争という全体主義的体制が教師を通して生徒の私に刻みつけていった傷痕である。それは消すことができない、あるいは凍結されて秘められたようにして残された傷痕である。しかしそれは今日に及ぶ私の思想的作業を促す深いモチベーションをなすものであった。
                           (2009年8月15日)
 
[2009年8月15日の日付をもつこの文章は私の出身校である神奈川県立川崎高等学校の第20期卒業生の文集「戦中・戦後―私たちの思い出」に載せたものである。「昭和の日」に当たってここに再録した。昭和の少年としての私のこの体験は、戦後における私の行動と発言の原点としてある。]

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2016年1月1日 新年を迎え、日本に生まれた幸せをかみしめ、日本人で有る事の誇りを持ち、 生きる喜びを持ち続けたいと願いました。
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2011・2012この凄まじい年を生きている。幻想の世界が終り2013より今現在考えの及ばない 世界に入ると云われている。*私達の力がどれ程強いか、自己主権を持った者であり自由であるそれが現実です。意識が自由になって初めてそれが外に現れると。本当の自分を思い出す時が来た(ジョージ・カヴァシラス)