・健康的に軽快に、溌剌として生きるために必要なもの

zeraniumの『真実の情報』掲示板 より【転載】
4・4z
2016年3月 2日 (水)
・健康的に軽快に、溌剌として生きるために必要なもの

   労働は、もはやあなたの生の重要な一部を占めてはいない。
   肉体労働は、今や恥ずべき行為になってしまった。西洋の思想家、アルバート・カミュは、手紙の一つで冗談まじりに書いている――「自分の代わりに愛してくれと、金を払って依頼する時代が来るだろう。恋に落ちたら、彼は自分の召使に命じて、自分の代わりに愛を交わしてきてくれと言うだろう。」と。

   あるいはいつか、こんなことが起きるかもしれない。
   なぜならあなたはすでに、あらゆることを他人に委ね始めているからだ。まだ自分でやっているのは、好きになったり愛することだけだ。あなたは人に金を払い、自分のために祈ってもらう。金を払い、自分の代わりに祈り、自分の代理で儀式を執り行ってもらう。あなたはそんなことまで他人にやらせている。

   仕事をしてくれる人を雇えない人は自分がとても貧しく、いずれ、自分で愛さなければならないことまで恥じるようになるだろう。いつか、そんなことも起こり得るだろう。というのも、生には重要なことがたくさんあるのに、いまでは多くのことを金を払って他人にしてもらっているからだ。

   こうして重要なことから逃れたために失ってしまったものに、あなたは少しも気づいていない。失われたのは、生の力強さや活力のすべてだ。なぜなら人間の身体や人の存在は、何らかの労働をするようにつくられているからだ。しかし今ではそうした労働をすべて、免れている。正しい労働もまた、人の意識やエネルギーを目覚めさせるという点で、重要な位置を占めている。

   ある朝、リンカーンは家で自分の靴を磨いていた。
   そこへ訪ねて来た友人が言った、「えっ? 自分の靴を磨くのか?」 リンカーンは言った、「何だって? 君は人の靴を磨くのか?」 友人は言った、「いや、いや。自分の靴は人に磨いてもらっているさ!」 リンカーンは言った、「人の靴を磨くより、自分の靴を人に磨いてもらうほうが、ずっとよくないことだよ」

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   これはどういう意味だろう?
   つまり私たちは、生との直接的な接触を失いつつあるということだ。なぜなら生との直接的な接触は、労働を通してやって来るからだ。

   昔、孔子が生きていた頃のことで、約三千年前のことだ。
   彼がある村を訪れた時、年老いた庭師が井戸から水を汲み上げているのを見た。その様子は老人にとって、その作業が実に骨の折れる仕事であるのがわかった。その頃でさえ井戸から水を汲み上げるのに、牛や馬が使われていたのに、老人は懸命に自力で汲み上げていたのだ。

   そこで孔子は老人に言った、「馬や牛を使って汲み上げたらどうかね?」。
   すると老人は答えて言った、「そういう方法や発明は知っています。ですがそのような発明はどれも、人を肉体労働から引き離してしまうんです。肉体労働から離れてしまう日、人は生そのものから離れてしまいます」。

   生と労働は同義語だ。
   生と労働には同じ意味がある。でもあなたは次第に、肉体労働をしなくてもよい人たちは幸運で、肉体労働をしなくてはならない人たちは不運だと考えるようになった。そうした考え方のせいで、多くの人たちが労働をやめてしまい、一方で重労働をしなくてはならない人々がいる。

   重労働はあなたを殺すが、一方で少なすぎる労働もまた、あなたを殺す。
   だから私は、正しい労働と肉体労働の適切な割り振りが必要だと言うのだ。それぞれの人が、何らかの肉体労働をするといい。もっと熱心に、もっと至福に満ち、もっと感謝に溢れて自らの生に労働を組み込むならば、生エネルギーが脳から臍(へそ)の近くへ移動し始めるのがわかるだろう。

   肉体労働には頭脳もハートも必要ない。
   労働のためのエネルギーは臍(へそ)から直接引き出される。そして、そこがエネルギーの源だ。正しい食事の他に、多少の肉体労働がぜひとも必要だ。だがそれは、他人の利益になることをせよということではない。何らかの労働をすれば立派な社会奉仕になる、ということでもない。これらはすべて偽りだ。

   労働はあなた自身のためであり、他人のためではない。
   それによって何かの恩恵を受けることもあるだろうが、それは第一にあなた自身のためなのだ。裕福な者たちが肉体労働をやめてしまったのは、人に働いてもらう金があるからだ。その結果、敬われる二つの社会階級が労働から遠ざかり、手に職を持つ人々は次第に蔑(さげす)まれていった。

   より健康的で軽快に、溌剌と生きるためには、どれだけ肉体労働をするべきか、それぞれが自分自身に応じて、自分の身体に応じて見つけるとよい。それを通して身体の中に新鮮な空気が多ければ多いほど、一つ一つの呼吸が至福に満ちていればいるほど、内なる世界を探求するバイタリティーをさらに手にするだろう。

   フランスの哲学者シモーヌ・ヴェイユは、その自伝で実に素晴らしいことを述べている。彼女は言っている、「30歳まで、私は常に病気がちだった。不健康で、頭痛持ちだった。40歳になってやっと、私は自分がこれまで物質主義者であったことに気づいた。そして、より精神的になり、健康になった。自分が不健康だったのは、自分の物質主義的な考えに関係していたことが、後年ようやくわかったのだ。」

   病的で不健康な人は、存在に対して感謝に満ちていることができない。
   彼には存在というものに対する感謝の念がない。あるのは不機嫌と怒りばかりだ。そのような怒りに満ちている人にとって、存在から何かを受け取ることは不可能だ。彼はただ拒絶するだけだ。

   正しい労働や正しい運動を通して、生に一定の健康のバランスがとれていないなら、生に対して拒絶や抵抗や怒りを感じるのも当然だ。正しい労働は、”究極的な宗教性”に至る梯子(はしご)の重要な一段だ。

         内なる旅
         『インナー・ジャーニー』 OSHO  市民出版社
                            抜粋

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2016年1月1日 新年を迎え、日本に生まれた幸せをかみしめ、日本人で有る事の誇りを持ち、 生きる喜びを持ち続けたいと願いました。
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2011・2012この凄まじい年を生きている。幻想の世界が終り2013より今現在考えの及ばない 世界に入ると云われている。*私達の力がどれ程強いか、自己主権を持った者であり自由であるそれが現実です。意識が自由になって初めてそれが外に現れると。本当の自分を思い出す時が来た(ジョージ・カヴァシラス)