・「点滴」を利用して薬剤の大量消費が行なわれている

zeraniumの『真実の情報』掲示板 より【転載】
2016年5月16日 (月)
・「点滴」を利用して薬剤の大量消費が行なわれている

  「葬儀屋さんはよくこう言います。
   『昔のご遺体は軽かったのに、最近のご遺体は、重いですね・・・』」
   私は思わず、聞き返す。
   「それだけ大量点滴されて水膨(ぶく)れしている、ということですね?」
   「そういうことです。高速点滴した結果ですね。医者はそれを”溺死体”と呼んでいます。

   中村仁一医師は淡々と言った。
   彼はベストセラー『大往生したけりゃ、医療とかかわるな』(幻冬舎新書)で知られる。
   つまり重い分は、医者がここぞとばかりに大量点滴した水分の量なのだ。私は絶句して言葉もない。溺死体とは水死体のことで、膨(ふく)れ上がって人相、外観が変わってしまった遺体のことだ。昔の人は俗に、それを土左衛門と呼んだが、それはもはや見るに耐えない醜さなので、そう呼ぶしかなかったのだ。

   葬儀屋が2人がかりで遺体をベッドから持ち上げて、「これは重い!」と実感するほど水膨れした老人の姿・・・。そのズッシリ重い分は、医者が末期の患者に、ここぞとばかりに点滴の管から身体に注ぎ込んだ、大量の輸液の重量なのだ。

   「老人に、1日1・5ℓ 以上点滴したら死にますよ!」
   これは、病院に入院してわずか18時間後に苦悶死した、山中トミ子さんの診療記録を見て叫んだ内海聡医師の言葉だ。(第1章参照) 「医者なら誰でも知っている。研修生でも知っています。知らなきゃ馬鹿です。でも知っててやったなら”殺人”です」

   私はこのとき、山中トミ子さん(本書第1章記述)は、点滴輸液の高速注入で”殺された”と確信した。その診療記録や介護記録によると、わずか半日で、この84歳の小柄な老女の身体に、何十種類もの致死量の薬剤が注ぎ込まれていた。私は最初、膨大な診療記録に満載の医薬品の”薬毒”で、彼女は急死したと思っていた。しかしこれらの夥(おびただ)しい医薬品の毒性を待つまでもなく、短時間でかつ大量の輸液を体内に注入すれば、簡単に老人の命を奪うことはできるのだ。

   そうした意味から、この”点滴殺人”は医療過誤死の盲点になっていると言える。
   「亡くなった老人の遺体をベッドから運ぶと、その下のシーツもぐっしょり濡れている」。そう証言する病院関係者もある。なぜシーツがそれほど濡れているのか? あまりに大量点滴したために、病人の体から溢れ出た水分がシーツを濡らしているのだ。しかも遺体から吹き出すほどの大量点滴だ。それは葬儀屋がズッシリ重いと実感するほどの量だ。

   おそらく1・5ℓ どころか、それ以上の大量が注ぎ込まれたに違いない。
   その異様な重さを思うと怖ろしくなる。内海医師は、大量点滴だけで老人は確実に死ぬ、と断言した。その死因の一つに肺水腫がある。肺に水が溜まって呼吸困難で死亡する。早く言えば、体内で水に溺れるということだ。

   大量点滴で全身の臓器は悲鳴を上げるが、それは肺だけではない。
   体中に水分が溢れ、全身の臓器が水膨(ぶく)れとなり、最後は死に至る。まさに体の中の臓器が”溺れて”多臓器不全となる。だからその外観が”溺死体”そのままであるのも当然だ。

点滴を利用して薬剤の大量消費が行なわれている
   体内に溢れる輸液のことを、医学用語で”溢水(いっすい)”と呼ぶが、文字通り溢れる水のことだ。つまり、医療現場では過剰大量の点滴で、体内に水が溢れる事態をはっきり認識している。だがそれでも、過剰点滴は日常茶飯事に行なわれている。その理由はいったい何だろうか? しかも末期になればなるほど、点滴の輸液量は増大する。こうなれば目的はただ一つ、大量の薬剤を消費するために、それを患者の体内へ注ぎ込むのだ。

   まずここで、点滴という医療行為を冷静に見つめ直してみよう。
   それは医療現場では見慣れた光景であり、ほとんどのベッドに横たわる入院患者には点滴が施される。しかもその点滴装置をガラガラと引きずりながら、病院内を動く患者の姿も珍しくない。トイレにも引っ張って行く。自販機で缶コーヒーを飲んでいる人もいる。患者は当たり前のように、装置を引きずりながら部屋を出入りしている。

   これは実に奇妙な光景というしかない。
   「点滴」の定義を調べてみよう。そこには「口から水分を摂取することが不能な患者に対する応急措置」とある。生命維持に必要な水分を口から摂れなければ、他の方法によるしかない。その窮余の策として考えられたのが点滴なのだ。だから点滴という医療行為は本来、水分の経口摂取が不能な患者にだけ行なう救急措置である。

   だが実際には、点滴装置ガラガラの多くの患者は、普通に見舞い客と談笑してお茶を飲み、休憩コーナーで自販機から何かを買ってうまそうに飲んでいるではないか! 彼らはとても、経口水分摂取が不能な患者には見えない。これが、日本中の病院で溢れ返っている光景なのだ。

   つまり、医療現場における「点滴」原則は、とっくの昔に崩壊している。
   口からちゃんと水分や食物を摂れる患者にまで、日本中の病院で点滴が当たり前のように行なわれている。その理由はただ一つ、大量注入による薬剤の消費である。

   昔はその都度、注射であったが、投薬の種類も少なかったからそれで済んだ。
   だが現在では、病院で患者に投与する医薬品の数は半端ではない。それは数十種類にものぼり、そのたびに患者に注射していたのでは患者も痛くてかなわない。それでは患者もいやがるし、病院側としても薬剤の消費が増えない。

   そこで彼らは「点滴」に目をつけた。
   これなら1回針を刺してセットするだけで済む! 患者の苦痛も1回だけだ。こうして両者の”思い”が一致して、点滴は本来の用途から大いに逸脱し、点滴ガラガラで缶コーヒーを飲む患者の姿という、現代の病院風景となったのである。

   異常も繰り返されれば日常となり、いつの間にか”正常”と勘違いしてしまう。
   点滴がまさにその典型である。本来、経口水分摂取不能な特殊な患者にだけ行なわれるべき点滴医療が、今や、大量の薬剤を消費するために、それを患者の体内へ注入する手段として活用されている。

   世界の医療利権、つまり西洋医療を支配するのは、ロックフェラー財閥とロスチャイルド財閥であり、世界の巨大製薬会社はすべて、彼らの傘下にある。つまり、約1000兆円と推計される医療利権のほとんどは、これら二大財閥に吸い上げられている。その製薬利権を現場で支えてきたのが点滴という、薬剤の”高速道路”なのだ。

   だからたとえ、点滴が本来の定義から大きく逸脱していようと、それが問題視されることはないし、黙殺されてきた。それが日本全国の病院の現状である。

全身水膨れで死ぬ
 (1)「溢水(いっすい)」症状:輸液過剰な状態を指す。
    症状としては「胸水」「肺気腫」「呼吸困難」「肺うっ血」「心不全」血圧上昇」「腹水」「全身の浮腫」「起座呼吸」「頸静脈の怒張」etc.。全身あらゆる部位で「浮腫」が現われる。わかりやすく言えば「むくみ」「水ぶくれ」。そうして患者は「呼吸困難」「心不全」などで死亡する。まさに遺体のありさまは”溺死体”そのものだ。
  2) 「呼吸困難」:「短時間に大量の輸液が負荷されると、右心房→右心室→肺動脈へと静脈血のボリュームが増加し、肺毛細血管の静脈圧が上昇し、肺うっ血などが起こる。肺うっ血では、呼吸困難、起座呼吸・・・などが見られる」(『輸液 Nursing Note』メディカ出版)
 (4) 「高血圧」:体内に水分が異常に増える。だから血圧上昇も当然である。「細胞外液量の増大により浮腫や高血圧をきたす」
 (5) 「高カリウム血症」:カリウム剤配合輸液を急速大量投与すると、高カリウム血症を発症し、心臓が停止する。「注意しなければならないのは、投与液量と投与速度。いちばん危険なのはカリウムでしょうか。最悪の場合、生命に関わります。カリウム剤を入れるときは、20mEq/時という速度制限を必ず厳守しなければいけない」(越川教授 前出)
   カリウムは電解質で、心筋を動かす電気信号を伝達する。
   過剰で心停止に至る。欠乏では4肢麻痺、意識障害を起こす。
  (6) 「酸血症」(アシドーシス):ブドウ糖配合の高カロリー輸液を点滴するときは、ビタミンB 剤も同時投与しないと、「酸血症」を発症し、急死する。

   専門学者ですら、「点滴は不要」と明言している。
   そして不要な点滴で、これだけの副作用死が続発している。「老人は生理機能や予備力が低下し、代謝障害とかいろんな障害が起きてくる。病変を持っている高齢者に輸液(点滴)を行なう時は、より注意が必要」(『外来における輸液の実際』前出、要約)

   このように高齢者への高速大量点滴は、まさに”殺人”行為そのものだ。
   原点に戻り、法律により、経口摂取可能な患者への点滴行為は厳禁にすべきではないか。そしてあなたの取る態度はただ一つ。「口から飲めるので、点滴は要りません」と決然と拒否することだ。

        高齢化! こうしてあなたは”殺される”
           book『老人病棟』 船瀬俊介著  興陽館
                          抜粋 

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2016年1月1日 新年を迎え、日本に生まれた幸せをかみしめ、日本人で有る事の誇りを持ち、 生きる喜びを持ち続けたいと願いました。
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2011・2012この凄まじい年を生きている。幻想の世界が終り2013より今現在考えの及ばない 世界に入ると云われている。*私達の力がどれ程強いか、自己主権を持った者であり自由であるそれが現実です。意識が自由になって初めてそれが外に現れると。本当の自分を思い出す時が来た(ジョージ・カヴァシラス)